口付けされるかと思った、と言ったなら笑われてしまうだろうか。

富松先輩の手が私の頬に添えられたとき、私の心臓はドキンと大きく飛び上がった。その時、私達は用具倉庫でふたりきりであったし、私がひどく遠回しに富松先輩と一緒にいたいと言った直後だったのだから、あらぬ期待をしてしまっても仕方のないことだと思う。さらには、私は長いこと富松先輩のことが好きだったのだから。

いつから先輩のことが好きだったかははっきりしないけれど、気が付いたらこの気持ちは育っていた。私が新入生としてこの用具委員会に入ったとき、富松先輩は私よりひとつ上の上級生としてよく私の面倒を見てくれた。富松先輩以外の先輩とは年が離れていて、忍術学園に入学したばかりの私にはほとんどプロの忍者と変わらない五・六年生は少し近寄りがたいものだったから、自然と富松先輩は私にとって一番近しい先輩となった。

学園生活に慣れた二年生になってからもそれは変わらなかった。用具委員長の食満先輩は特に一年生を可愛がったから、必然的に私と富松先輩は一緒に仕事をすることが多かった。その頃にはもうすでに富松先輩が好きだったように思う。ませた子どもだったかもしれない。富松先輩とふたりで仕事が出来るのが嬉しかったりした。

それは私が四年生になっても変わらず、今も先輩の隣で仕事をすることが多かった。先輩が私を信頼してくれるのが嬉しくて。それが例え委員会活動の場だけだとしても先輩の隣にいられることが幸せで仕方なかった。

今日だって用具倉庫へ向かう富松先輩を見つけて、私は手伝いを申し出た。少しでも富松先輩のそばにいたくて。今日学園に食満先輩が来ているらしいですよ、などと世間話をしながら用具の点検をしていく。他愛もない話をしていたはずなのに急に富松先輩が押し黙ったって沈黙がやってきた。どうしたのだろうと思いながらも用具の数を数えていく。



沈黙の中不意に、先輩がいつものように名字でなく、名前で私を呼んだような気がしたのは聞き間違いだっただろうか。きっと気のせいだ。名前で呼ばれることの多い私を今まで頑なに名字でと呼んでいた富松先輩が今さら名前で呼び捨てするはずがない。その声でと名前を呼ばれたならどんなにドキドキするだろうと考えたことはあったけれど、そんなことが現実に起こるわけがないと思っていた。

現実に起こるわけがないと、そう思っていたのに。

呼ばれたので顔を富松先輩の方へ向けると、その動きに沿うように先輩の手が私の頬に触れた。私の頬を包み込むように、先輩の大きくてあたたかい手が触れている。先輩の視線がまっすぐ私に注がれている。体がうまく動かない。声が震えた声で「富松先輩、」と呟く。視線をずらすことすら出来なくて、私はただ先輩の瞳を見つめ返すことしか出来なかった。すると富松先輩の視線が揺れ動いた。

「何か付いてんぞ」

そう言って富松先輩は触れた方とは反対側の私の頬を制服の袖で擦った。突然のことに頭が付いていかない。えっと、頬に何か付いている?私は汚れた手で顔を触ってしまったのだろうか。顔に泥でも付いていたのだろうか。全く心当たりがなかったから何が付いていたのか気になったけれども、それよりも触れている手が。

「あの、ありがとうございます…」
「おう」

そう言うと富松先輩はパッと手を離した。何の躊躇もなく離れてしまった手が名残惜しくて。その手を目で追う。富松先輩に触れられた左頬が熱くて、先輩に拭われた右頬が甘く痺れている。上手く呼吸が出来なくて、このまま息が止まってしまうんじゃないかと思った。

「確認終わったか?」

ようやく私は我に返って手元に集中する。もうほとんど終わるところだったので「今終わります」と答えると、「んじゃ今日はこれで終わりだ」と言って富松先輩が踵を返す。あんな風に頬に手を添えられて、瞳を覗き込まれる様はまるで口付けされる直前のようだったと気が付くと、カッと顔に熱が集まる。先輩の袖を引いて、抱きついて引き止めたいと思った。思うだけで、到底それを実行する勇気も度胸も私にはないのだけれど。それでも私は腕を中途半端に伸ばして、きゅっと何かを握る動作だけはした。中に何も入っていない拳を握り締めたまま、私も先輩の後について用具倉庫から出る。顔の熱が引かない。一体どうしたら良いだろうと考えていると、不意に富松先輩が足を止めた。何事かと思って、富松先輩の横から顔を出して前を確認すると、先ほど話題に上がった食満先輩が立っていた。片手を軽く上げて、笑顔で挨拶される。

「よお。作兵衛、、久しぶりだな。ふたりで用具の点検か?」
「ええ、まぁ」

と富松先輩が返事をする。私は赤い顔を隠すように、富松先輩の一歩後ろに立って俯いていた。

「お前ら相変わらず仲良いな」
「そんなことねぇっすよ」

私が「そんな、」と音にする前に富松先輩がきっぱりと否定した。ズキンと心臓の辺りが痛む。自分だって否定の言葉を発するつもりだったくせに。いたいいたいと胸が悲鳴を上げる。実際私達は付き合っているわけじゃないのだから否定するのは当たり前なのに、頭では分かってるのに。私と富松先輩の言葉の重さの違いを思い知る。もう少し慌ててくれたっていいのに、と少し恨めしく思う。さっきのことだって、きっと富松先輩は何とも思っていないに違いない。私の心臓が破れてしまいそうなほど高鳴っていたことなんてこれっぽちも知らないで。

「何だよ、照れんなよ」

と食満先輩は富松先輩の方に腕を回しながらも、目は私の顔を覗き込みながら言う。きっと食満先輩には私の顔が真っ赤なのがばれてしまっているのだ。

「別に照れてねぇっすから。俺用事あるんで、失礼します」

不機嫌そうに富松先輩は回された食満先輩の腕を外して、歩き出す。富松先輩は私との仲を誤解されるのがそんなに嫌だったのだろうか。実際富松先輩は私の恋人でもなんでもないので恨むことは出来ないが。富松先輩にとって私はただの後輩にしか過ぎないのだから、そんな噂が立っても迷惑なのだろう。当然すぎることなのに胸が痛くなる。隣にいられるだけで幸せだって思っていたくせに。自分の欲深さにびっくりする。富松先輩の姿が見えなくなると同時に食満先輩が口を開いた。

「なんだ?お前らまだくっついてなかったのか」
「どうしてそう思うんです」
「恋仲だったら普通女置いてどっか行ったりしないだろ」

それはそうだろう。けれども私達は恋仲ではないのでそれは当然なんですよ。それよりも食満先輩は一体いつから気が付いていたのだろう。まだという言葉を使ったということは以前から私の気持ちに気付いていたのだろう。あれだけ意識的に富松先輩の隣にくっついていたのだから、気付かれたって当然なのだけれど。

「用具倉庫でいい雰囲気だったくせに」
「見てたんですか」
「出てきたお前らの顔見りゃそれくらい分かる」

実際あれがいい雰囲気だったのかどうかは分からないけれど、きっと私の顔にははっきりと何かありましたと書いてあったのだろう。私にとっては大事件だったのだ。あんな風に富松先輩に触れられたこともなければ、あんな風に正面から真剣な瞳で見つめられたこともなかったのだから。隣にいるだけで精一杯だったのに。

「追わないのか?二年生のときはずっと作兵衛の後くっついて歩いてただろ」
「やっぱり食満先輩にはばれてたんですね」
「最初は作兵衛にばっか懐いて俺のとこには全然来ないから嫌われてるのかと悩んだ日もあったけどな」

別に食満先輩のことは嫌っていませんよ、委員長として純粋に尊敬していました。そう言うと食満先輩は笑った。

「じゃあ、作兵衛のことは?」

分かってるくせにわざわざ聞くなんてなんて意地悪なんだろう。食満先輩も私が答えるなど期待していなかったようで、ニヤっと笑うと私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

「さてと、をからかうのはこのくらいにして。俺は喜三太、しんべヱ、平太に会いに行ってくる」

早く追いつけよ、と食満先輩が手をヒラヒラさせて去っていく。私はくるりと食満先輩に背を向けて、富松先輩が消えた方角を見据えると、強く地面を蹴って走り出した。 >>