――放課後、屋上で

朝、下駄箱を開けると白い紙が丁寧にふたつ折りにされて、ちょこんと上履きの上に乗っていた。紙には時と場所だけが綺麗な文字で書かれていた。もしかしてこれが噂の呼び出しというやつなのだろうかとぼんやり思った。

文字から察するにこれを書いた主はいわゆる過激派ではなさそうだ。やはり柳のファンは柳自身がそうであるように、清楚系だったり控えめの女の子が多いのだろうか。ちらりと先日柳と並んで歩いていた生徒会の後輩が脳裏をよぎった。そんな子に屋上に呼び出され一体何を言われるのだろう。多分過激なことはされないとは思うが、少し気が重たい。その丁寧に折られた紙をくしゃりと鞄の中に押し込めて、とりあえず指定された放課後までこのことは忘れることにした。

忘れたかったのに、授業中はたった一枚の薄っぺらな紙切れが鞄の中でひどく存在感を放っているように感じられた。今日は部活が休みで良かったと思う。どれだけ時間が掛かろうと気にせずに済むのだけが救いだった。

重い足取りで屋上までの階段を上る。屋上へ出る扉を開けると、その向こうには男子生徒がひとりいた。私の予想していた女生徒の姿はどこにもない。ただ、その男子生徒の背の高い後ろ姿は嫌というほど見覚えがあった。嫌でも気が付いてしまう。

「柳?」
「誰だと思ったんだ」

まさか柳だとは思っていなかった。その可能性を少しでも考えるべきだったのに、何故か私はこの手紙の差出人が柳だとは全く考えなかった。

なら筆跡で気付くと思ったが」

これが誰の筆跡かなんて気にも止めていなかった。確かによく考えればあの流れるような綺麗な文字は柳のものだった。何度か柳の字は見たことがあったというのに、完全に先入観に支配されていた。第一、柳はメールアドレスも知っているし、話があるというのなら無理矢理私を捕まえればいい。手紙なんて回りくどいやり方を取らなくたって、柳には他にも手段が沢山あるのだ。もっとも、柳の方も名前を書かなかったのだから何か意図があったに違いない。私が差出人が誰だか確証が持てないことを理由にここに足を運ぶだろうと考えていたはずだ。

「てっきり噂のファンクラブからの呼び出しかと思ったよー」
「なんだ、それは」
「知らないの? テニス部はその人気のあまりファンクラブがあって、そのファンクラブに目をつけられた女の子は呼び出しをうけるって」
「そんな噂話を間に受けていたのか」
「間に受けてるってほどじゃないけど」

私がファンクラブのことを言えば柳は馬鹿にしたように笑う。私だって本気で手紙が柳のファンクラブからの呼び出しで、昔の少女漫画のように脅されるなんて思ってはいない。でも、柳のことが好きな女の子が個人的に私を呼び出して話をするくらいはありえないとは言いきれないだろう。

「もし仮にそれが事実だったとして、この柳蓮二がそんな失態を冒すとでも?」

柳は自信満々に言う。確かに人心を掌握する術に長けている柳ならファンクラブでさえも手のひらの上で操ってしまいそうだった。動向に気を配り、情報を事前に入手して、厄介なことになる前に手を打つだろう。『仮に』の話なのに本当にそれを行動に移しているのではと思わせるところが恐ろしい。

「それが、このところ俺を避けている理由でもないだろう?」

やはりバレていた。これが私を呼び出した理由なのだ。気付かれていないかもしれないなんて甘い考えで、当然のように柳は私の小さな不自然さを捉えていた。

「どうして俺を避けている?」

すっと柳が扉への逃げ道を塞ぐ。これで自然にこの場を去ることが出来なくなってしまった。しかし、避けているのは分かってもその理由までは柳は分からなかったようで安心する。もしもそこまで知られていてしまったらと思うと恐ろしい。本当の理由なんて言えるはずがないから「避けてなんかいない」と言おうとする私を柳の声が遮った。

「何があった」

先ほどまで自信に満ちていた柳の表情が崩れる。柳は心配してくれていたのだと気が付いた。まただ。また柳に心配させてしまった。私はどれだけ柳に迷惑を掛ければ気が済むのだろうと後悔した。

「お前はいつも優等生然としていて大抵のことはひとりで出来てしまうからな。だが、俺はお前に頼られたい」

柳がそんな風に思っていただなんて知らなかった。ひとりで何でも出来てしまうなんてとんでもない。私としては出来ないことの方が遥かに多いと思っていたのだけれど、柳にとってはそうではなかったらしい。今でも十分柳に助けられてばかりだと思っていたのに。

「私は柳のこと頼りにしてるよ。柳ほど優秀な人を私は知らない」
「俺は何かあったときが一番最初に頼る人物になりたいんだ」

柳はさらに言い募る。柳が何気なく使ったであろう、『一番』という言葉にドクンと心臓が鳴る。

「頼るよ」

もうすっかり私は柳を頼りにしている。もうとっくに柳を信頼している。心を許している。これ以上何を望むというのか。柳は頼れ頼れと言うけれど、これ以上は重くてきっと柳も困ってしまうに違いないのに。これ以上頼ったら、弱い部分をさらけ出したら、きっと柳は幻滅するだろう。それが、こわい。

「でもそういうのはあんまり軽々しく言うものじゃないよ?」

誤解してしまうから、という言葉は飲み込んだ。期待していると教えるようなものだから、言えなかった。そもそも、こんな風にやさしくされて、甘やかされては、好きになってしまうに違いないのだ。誰でも勘違い、してしまうに決まっている。

『一番』になりたいのは私の方だ。柳の一番に、それも唯一の一番になりたいと願っている。そして、柳も同じように思っていてくれないかと期待しているのだ。以前もこうして柳に頼れと言われたことがあった。あのときはまだ純粋に柳の言葉が嬉しいと思えたのに。あのときとは全然違う。好きだというその自覚があるのとないのとでは全く違った。何の意味も含まず言われる言葉がこんなにも。

「どうしてそんな顔をする」
「そんな顔って何」
「それで上手く笑っているつもりか?」

指摘されて初めて口元の筋肉が強張っていることに気が付いた。冗談のように軽く笑い飛ばすつもりだったのに、どうして。どうして、柳の前だと上手くいかないことが多いのだろう。私が私でなくなってしまったみたいに、身体が、感情が、制御出来なくなる。

「俺はお前にはぐらかされているのだと思っていたのだが……」

もう、これ以上は待てないなと小さく呟く柳の声が届いた。すっと、不意に柳が私の右手を掬い取った。手を引っ込める間もなく、柳の大きな手に包まれてしまう。

「俺は、お前が好きなんだ」

一瞬柳の言う言葉の意味が分からなかった。突然のことに私が目を丸くさせているというのに柳は表情を変えない。さらさらと柳の髪を揺らす風だけが、時の止まっていないことを示している。その後ろには綺麗な秋晴れの空が広がっていた。

柳は今、何と言った? その意味を考えたいのに握られた右手の熱さとか、注がれる真っ直ぐな視線だとかに意識が霧散してしまう。

驚きから身一つ動かすことが出来ずに柳を見ていると、柳もそれと同じ分だけ見つめ返してくる。少しずつ動き出した脳みそから出てきたのは「うそだ」という言葉だった。

「うそだ」
「嘘ではない」
「だって、柳が私を好きになる要素がない」
「お前にだって可愛らしい一面ぐらいあるだろう」
「ない」
「なら具体例を挙げようか?」

柳の口元が楽しそうに弧を描く。この表情は何度か見たことがあった。

「そうだな、好きなものについて語っているお前は目が輝いていて俺は可愛いと思うが。はっきり物を言うところも、友人を大切にするところも、好ましく思う」

恥ずかしげもなく彼は言う。可愛いだとか好ましいだとか、そんな風に柳に思われていただなんて知らなかった。考えたこともなかった。だって、柳はそんな様子、これっぽっちも見せたことが――

「いつも冷静な分、偶に動揺する姿を見ると抱きしめてやりたくなるな」

見せたことが、なかったくせに。

突然の出来事に思考がついていかない。思わず一歩後退る。すると掴まれていた右手を逆に引かれてしまった。

「抱きしめたくなると言っただろう」

耳元で柳が囁く。いつの間にか距離が縮められていて、柳の手が私の背中に回っていた。これは夢か、私の脳が見せる都合のいい幻覚じゃないかとすら思った。

「逃げないのか」
「こ、こんな風に力を込められたら逃げたくても逃げれない」
「なら力を弱めようか?」

柳がふっと力を抜いたことによってふたりの間に距離が出来る。いつでも逃げ出せるはずなのに体は縮こまったまま固まって動かない。キャパシティをオーバーしている。

「可愛いな」

そう言って柳は私の髪を撫でる。思考がぐずぐずに溶けていくようだった。心音が早い。顔に熱が集まっているのが自分でも分かる。そんな私を見て柳はまた満足そうに笑う。顔が真っ赤に染まっているのはもちろん、心音の早さも、抱きしめられている今となってはバレバレなのだろう。

「柳じゃないみたい」
「お前に対してだけだ」

柳があまりにも簡単に心情を口にすることを指して言えば、彼はまた平然と恥ずかしい台詞を言う。私ばかりが心を乱されているようで悔しい。

「そろそろ返事を聞かせてくれないか」
「……言わなくたって分かるでしょ」
「いや、の口から直接聞くまでは安心できない」

きっと柳は私の気持ちを確信してるに違いないのに。柳のことだからある程度の自信があるから言ったに違いない。それに私の今の態度から返事なんて知れてる。それなのにこうして確証を得ようとするのはひどく柳らしいように思えたし、分かりきっていることを尋ねるなんて柳らしくないことのようにも思えた。

「……好き」
「ああ」

私には言葉を要求したくせに柳はそんな返事をする。素っ気ない返事になんだか物足りない気分になって「柳が好き」ともう一度溢せば、「もういい」と、再び強く腕の中に閉じ込められてしまった。

はらりと。めくれるように少しずつ柳の心が覗く。知りたかった答えを柳が口にしてくれる。それが嬉しくて、私からもゆっくり柳の背中に腕を回した。


花に覆われた心臓

end.