例えば私が誰かの特別になりたいと願ったとして。

放課後、ホームルームも終わり、あとは部活に向かうだけだというときに「」と柳に声を掛けられた。名前を呼ばれるだけでぞわりと胸が震える。その理由を私はもう知っている。

「今少しいいか?」

席替えをしてから柳と話す機会は減った。

席替えは二学期に入って早々に行われた。前回は花音を始め比較的親しいクラスメイトが近かったが、今度はあっさり離れてしまった。私の席は廊下側から三列目の一番後ろになった。一番後ろの席を引き当てたのはラッキーだけれども、今までが窓側だった分教室の中心近いこの位置はなんとなく落ち着かなかった。今度もまた花音と前後になれるわけなく、彼女は前から二番目の席だった。そして柳は廊下側の三番目を引き当てた。前の方だが一番廊下側だから背が高くてもあまり他の人の板書の邪魔にならない位置だ。当然、真面目に授業を受けていれば視界に入らないはずなのに、気が付くと人の隙間から柳を盗み見てしまっている。視線が勝手に彼を追ってしまう。

「ごめん、二年生は早めに集まって話し合いをすることになってるから」

夏休みが終わり、先輩が引退したことで部活が忙しくなったのは本当だ。今度は私たちが部を引っ張っていかなくてはならない。けれど、一分でも一秒でも早く部室に行かなくてはいけないというわけでもない。ホームルームが長引いたわけでもなく、むしろ少し早めに終わった今日ならば本当は柳と話す時間はほんの少し作れたはずだった。

「急ぎの用事?」
「いや、他愛のない話だ。部活に行ってくれ」

そう言って柳は首を横に振る。嘘を吐いてしまったことの罪悪感が胸を刺す。昼休みは顧問の先生のところへ行かなくてはいけないと言い、またその前は部活の後輩に伝えなくてはならないことがあると言って柳から逃げていた。今まで何度か柳とふたりきりで話すことを気まずいと感じたことはあったけれども、こんな風にあからさまに避け続けることはなかった。そろそろ気付かれてもおかしくないのではないかと思う。いや、柳はもうとっくに気付いているのかもしれない。

授業中はあんなに目で追っていたくせに目の前に立たれると直視出来なくなる。顔を見れなくて、柳の背が高いのを良いことに彼の肩のあたりをぼんやりと見ていた。

「では、また明日」

柳の深い声が私を送り出す。柳が私に心を開いてくれていることは分かる。でもそれは友情以上ではないような気がしてそれ以上踏み込むのを躊躇ってしまう。もしも『そうじゃない』と言われてしまったらどうしようと考えてしまう。『お前の勘違いだ』と言われたら。

逃げるように去ろうとして今のではあまりにもあからさまに避けているようで感じが悪かったかと思い直し、明るい声で「いってきます」と言って柳の脇をすり抜けた。こんな小細工をしても無駄かもしれない。柳にはもうとっくに私の心が知れてしまっているんじゃないかと恐ろしくなる。それなのに柳の心は私には読めないのだ。喜んでいるとか不機嫌そうとか、表面的なことは分かっても心の奥深く、私が知りたいと望む部分は見えない。まだ。見せてもらえない。

教室を出ようとしたところで花音が立っていた。眉を下げて、どこか悲しそうな表情をしていた。

……」
「ごめんね」

花音が何か言いたそうに私の名前を呼んだけれども、私はそれには応えなかった。私の柳への思いを知っている花音には私が彼を避けていることがはっきりと分かるのだろう。花音に話したあの翌日からこの調子なのだから分からないはずがない。花音に心配を掛けるなんて。いつもの私ならもっと上手くやれるはずなのに、柳のことになると調子がおかしかった。

柳が私のことをどう思っているのか分からない。柳が私の気持ちに気付いているかどうかさえ分からないからこの後どうやって行動するべきか判断出来ない。それが私を雁字搦めにする理由だとは分かっていても、どうしようもなかった。

*

視線は彼を追う。

楽譜をコピーするために職員室へ向かっている最中だった。ふと視線を外に向けると柳が女の子と歩いている姿が見えた。ありきたりな、と嗤う自分が頭の隅にいたけれどもすぐに掻き消えた。

あの子は確か中学のとき柳と同じ生徒会役員だった子だ。一つ下の後輩で接点なんてないのだけれども役員選挙の際に演説をしていたから顔は覚えている。柳はジャージではなく制服のままだった。今日はテニス部は部活がなかったのかもしれない。

何を話しているのだろう。窓ガラスを挟んだ二階からではふたりの声が聞こえるはずもない。柳が私の視線に気付くこともない。少し下にある女の子の方を向き、何か話している。ふたりが何を話しているのか、ひどく知りたかった。こんなこと、普段は絶対に思わないことだ。このまま階段を駆け下りてあの場所へ行きたかった。偶然を装って柳に話しかけたかった。さりげなくふたりの間に割って入ることが出来たらと思った。でも、そんなことが出来るほど私は素直じゃなかった。

じっと柳の口の動きを観察してみてもそこから言葉を読み取るような技術は私にはない。ただ、柳の口元がいつもよりゆるやかな弧を描いているような気がして、こんなことばかり考えてしまう自分に嫌気がさした。柳がたまたま女の子と歩いている姿を目にしただけでこんな気持ちになる私はきっとどこかおかしくなってしまったのだ。

「柳」

小さく小さく名前を呼んでみたって彼には届かない。いくらここから柳に視線を送ったって彼は気付かない。当たり前のように彼が私の声を拾って当たり前のように私の視線に気付くのも、クラスでたまたま席が近かったからに過ぎないと知る。花音でなくても柳にお似合いな女の子はこの学校内だけでも沢山いたのだと思い知った。生徒会の後輩となんて、いかにもそれっぽいではないか。

無理矢理視線を窓の外からはがし、足早にそこから去る。柳があの位値から私の姿に気付くはずがない。分かっていても、彼を一方的に見つめるだけの自分がひどく惨めだった。

柳が好きだ。それに気付いてしまえば簡単だった。柳が好きだから私が柳に影響していると分かれば嬉しい。でも、私が柳の特別になりたいと願ったとして、何が出来るだろう。それを考えて私の胸はまたツキリと痛んだ。

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