突然、くらりと視界が歪んだ。部活中だったのに前を歩く後輩の背中がぐにゃりぐにゃりと曲がってどんどん小さくなったと思うと足から力が抜けて立っていられなくなった。そのままぺたりと床にしゃがみ込むと持っていた譜面台が手から滑り落ちてカシャリと音を立てた。今楽器を持っていなくて良かったなぁなんてぼんやり思っていると音を聞いて振り向いたらしい後輩が「先輩!」と叫ぶ声が随分遠くから聞こえた。
「ごめん、大丈夫だから」
後輩を心配させないように笑顔を作って言ったつもりだったのに彼女の表情はどんどん強張っていく。
「先輩、顔色悪いですよ!」
「ちょっと眩暈がしただけだから。もうなんともないよ」
「そんなこと言って立ち上がれてないじゃないですか! 私がこっち側支えるんで保健室行きましょう」
一瞬ぐにゃりと歪んだ景色はもうすっかり元通りになっているのに、騒ぎを聞きつけて部員が数名集まってくる。その間に後輩は私の腕を肩に回して支え起こそうとしてくれた。別の子は私が落とした譜面台とファイルを拾い集めてくれている。
「先輩、立てますか?」
グッと足に力を入れて立ち上がる。平気だと思っていたのに、気を抜くとまた座り込んでしまいそうで、必死に壁に手をついて体重を支えた。自分の体はこんなに重かったのかと驚いた。
「やっぱり先生が来るまでここで待った方がいいですか?」
「大丈夫。保健室くらいひとりで行ける。ありがとう、練習に戻っていいよ」
そう言って半分先輩命令を使いながらも後輩を戻らせる。騒ぎを聞きつけて教室から顔を出した同級生に「ちょっと保健室行くから部長に伝えといてくれる?」とだけ言って、私はひとりで保健室に向かった。今は後輩にああ言った手前、気を張ってなんとか立っていられるが、本当は誰の目もなければすぐにでもまたここに座り込んでしまいそうだった。
それでも何とか保健室に辿り着くと、丁度保健室にいた養護教諭に簡単に事情を説明してベッドを貸してもらった。
横になるとそれだけで随分楽になった。
額に冷たさを感じて目を開けると女性の後ろ姿が目に入る。彼女は私が身動ぎする気配に気が付いて振り向き、やわらかな表情を作って私の額に手を置いた。一瞬目を瞑っただけのつもりだったのだけれど少し寝ていたらしい。時計を見ると眠ってしまったのは一時間ほどだった。
「風邪ね。もう少し休んでいなさい」
そう言って養護教諭の手が額から離れる。心地良かった手が離れて若干の寂しさを覚える。それを口にするほど子どもじみてはいないけれど、体調が悪くて少し弱気になっているのかもしれない。
「少し席を外すけれどおとなしく寝てるのよ?」
私に布団をかけながら先生が言う。小さく頷けば、柔らかい雰囲気を持った養護教諭は一度優しく微笑むと保健室を出て行った。
まさか風邪を引くとは思っていなかった。しかも夏風邪。昨日髪をしっかりと乾かさずに寝たのが原因だろうか。ここのところ睡眠不足でもあったから免疫力が弱っていたのかもしれない。
「失敗したなぁ……」
情けない。
次の本番までまだ間があるとはいえ、体調を崩して寝込んでいる場合ではないのに。他の部員に迷惑をかけた。保健室のお世話になるほど体調を崩すのは数年ぶりだった。
ごろりと寝返りを打って顔に腕を乗せる。頭はまだぼうっとしている。しかし逆に少し頭がぼうっとするくらいで、先ほどのように視界が眩むこともなければ体の重さもそれほど感じなかった。もう少し休んだら部活に戻れるだろうか。それとも無理するなと帰らされてしまうかもしれない。今日は無理せず帰ってしっかり体を休めるのが得策かもしれない。
そんなことを考えていると、ふと廊下を駆ける足音に気が付いた。基本夏休みは文化部しか校舎内にいないのでこんな風に走る人は珍しい。ガラガラと慌ただしくドアが開く音が静かな保健室に響いた。私は何事かと驚いて思わず体を起こす。
そこには柳がいた。
ここまで走ってきたのかドアに手を掛けて息を整えている。慌てて保健室にやってきたということはどこか怪我でもしたのか。いや走れるぐらいだから柳が怪我をしたわけではないだろう。では、別の部員が? そんなことを考えていると柳が視線を上げ、「」と振り絞るような声で私の名前を呼んだ。
「、具合は……?」
「平気だけど……。それより柳がどうしてここに?」
「吉川からメールが入っていた。吉川は吹奏楽部の友人から聞いたと言っていたが」
そう説明する柳は呼吸こそ乱れていなかったが首筋に汗が流れていた。部活で流した汗がそのままなのか、ここまで走ってきたせいなのかは分からない。ただいつも涼しそうな顔をしている柳が汗を流すほど必死な様子がなんだか信じられなくて、私は体を起こして柳のその流れる汗をぼんやりと眺めていた。どうやらテニス部の誰かが怪我をしたわけでもなく、柳は私に会いに来たらしいということだけは分かった。柳はつかつかと大股でこちらにやってくる。
「お前が倒れたと聞いて心臓が止まるかと思ったぞ」
「ごめん」
柳の語気はいつになく強い。怒っているのだろう。しかし、迷惑をかけた吹奏楽部員ならともかく、同じ部活でない柳がなぜ怒っているのか。
「でも倒れたっていうのは大げさだよ。気分が悪くなってしゃがみ込んだら立てなくなっちゃっただけで、ここまで自力で歩いて来れたし」
「お前は以前体調管理はきちんとしていると言っていたはずだが」
「……はい、今回は体調管理を怠った私が全面的に悪いです」
確かに柳に自分は体調管理をきちんとしていると言った覚えがある。実際無茶をしたつもりはないのだけれど、体には限界が来ていたのだろう。自覚がないなんて一番質が悪い。
「後輩にも心配かけちゃったし」
そこまで言いかけたところで柳に手をぎゅっと掴まれた。突然のことで驚いて柳を見ると、彼はなんと俯いていた。さらさらした髪が影を落としている。私の位置からでは彼の表情は見えない。手を握ったからには何か言いたいことがあるのではないかと思ったのだけれど、待っても柳は顔を上げなかった。
「柳にも……。ごめんね」
そう言って私の手を握る柳の手に左手を重ねる。柳だって今は休憩中とはいえ部活中だろうにこうして駆けつけてくれたのだ。どれだけ心配をかけただろう。それなのに、迷惑をかけたというのに私の心にはなぜか喜びがじわじわと広がっていく。
「どうしてお前はいつも、俺の目の届かないところで……」
絞り出すように彼が言う。柳がこんな風に私のことを心配してくれるなんて思わなかった。こんな柳は見たことがなくて、どうしたらいいのか、なんと声を掛けたら良いのか分からなくなる。ぎゅうぎゅうと心臓が締め付けられる。
「これからはちゃんと気をつけるから」
「ああ、ぜひともそうしてくれ」
口調こそいつもの柳だったけれども、その声はかすかに震えていた。ほんの少しだけ。私なんかよりも柳の方がよっぽど弱っているように見えた。
顔を上げない柳の頭をそっと撫でてみた。ぴくりと柳の指先が動いたけれどもそれっきり何も言わなければ顔を上げる気配もなかったのでそのまま頭を撫で続ける。柳の細い髪が私の指の間を流れた。
いつもの柳だったらこんなことを許しはしなかっただろう。私が病人だから手加減してくれているのだろうか。もっと私の体調管理不足を責めるのだと思っていた。それをしないほど、柳は私のことを心配してくれたのだろうか。いつもの調子を狂わせるほどに。
「心配してくれてありがとう。嬉しい」
私が素直な気持ちをこぼせば、柳はいつものように「ああ」と応える。言葉はいつもと変わらないのにいつもの柳とは違ってどうしたらいいのか分からなくなってしまう。これではどちらが病人なのか分からない。
右手は縋り付くように握られたままで、私はそれを振りほどくことも出来ずにいた。
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