柳の姿勢はとても綺麗だ。授業中でもピンと伸びていて、文字を書くときも丸まったりしない。授業の内容に飽きるとすぐだらけた姿勢になってしまう私とは大違いだ。先生が必死で数式の解説をする声を聞き流しながら隣に座る柳を盗み見る。こんな風にきちんと授業を聞いていないことがバレたらまた柳に嫌味を言われてしまうだろうなと思い、ひとりこっそり笑う。
席替えをしてからしばらく経ったが、この席はなかなか快適と言えた。休み時間はわざわざ移動しなくても花音と一緒に過ごすことが出来るし、窓際だから授業中暇になれば窓の外を眺めて時間を潰せる。けれども最近の私は外を見ることよりも、隣の席に座っている柳をぼんやり観察しながら過ごすことが多かった。
斜め前に座っている花音は何度も顔を上げて黒板を確認しながら必死で右手を動かしている。私も花音のようにきちんと授業を受けなければと思うのだけれど一度解いてしまった問題の解説を真面目に聞く気にはなれなくて、視線はすぐに黒板から外れてしまう。頬杖をついて再び横を見るとすっと柳の視線が動いた。とっさにこのままだと目が合うと思い、慌てて顔を机に伏せた。一度机に伏せてしまうと先ほどと変わらない調子で続く先生の声を聞く気なんてもうすっかりどこかへ行ってしまった。
「――? ねえってば」
声にはっとすると花音の顔がすぐ近くにあった。心配そうな表情で私を覗き込んでいて、いつの間にか授業が終わっていたことに今さら気が付いた。生徒たちは次の授業の準備をしたり、クラスメイトとのお喋りに楽しんだりして教室内はざわついていた。
「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてて」
慌ててごまかす。ほんの少し考え事をしているつもりだったので授業が終わっていることに気が付かなかった。男子生徒の騒がしい声もする中でいくらぼーっとしていたとはいえ、どうして気が付かなかったのかと不思議なくらいだった。何でもないと笑ってみせたけれど花音は少し納得していない顔をしていた。
「ノート貸してほしいんだけどいいかな?」
「ごめん、私今日は最後の方ちゃんとノート取ってなかった。私も誰かに借りればいいやーと思ってて」
「そっか……。こちらこそごめんね。私がノート取るの遅いのがいけないんだから……」
「柳にでも借りたら?」
私がそう言えば柳が名前に反応して顔を上げる。ちらりと見えたノートは授業のものではなくデータ用のものらしかったが相変わらず綺麗な文字が並んでいた。花音がおずおずと柳の方を向くのを私は頬杖をつきながら眺めていた。
「柳くん、お願いしてもいいかな?」
「仕方ないな」
「あ、ついでに花音のあと私にも貸してよ」
「それが人にものを頼む態度か?」
「花音にはすんなり貸したくせに」
「吉川はきちんとお願いしてきたが?」
そんな私達のやりとりを見ていた花音がふふとやわらかく笑う声が聞こえた。
「柳くんっていつもそう」
口元に手を当てて微笑む姿はとても愛らしいと思う。同性の私から見てそうなのだから柳の目に花音はどんな風に映っているのだろうか。花音に笑顔を向けられて、柳はどう思っているのだろうか。私が思う以上に花音がかわいいと思っているのだろう。
柳と目が合う。その瞬間、私はバチリと電流が流れたかのように立ち上がる。ガタリと椅子が大きな音を立てた。
「どうした、?」
「ごめん、ちょっとトイレ……」
男子に向かってトイレはさすがに品がないかとも思うが実際トイレに行くわけではないからどうでもいい。これは嘘だ。こう言えば柳は絶対について来れないと見越しての嘘。お手洗いに行きたいわけじゃない。ここでないどこかならどこでも良かった。柳と花音のふたりの姿が目に入らない場所なら、どこでも。
「、大丈夫? もしかして具合が悪いんじゃ……」
「大丈夫大丈夫。何か椅子が大きく鳴っちゃった。ごめん」
そうやって話してる間にもぐるぐるぐるぐるお腹の底で何か得体の知れないものが渦巻いて気持ち悪い。それを悟られないように何でもないふりをして、いつも通りの笑顔を浮かべて教室を出る。少しだけ表情が固くなっていたかもしれない。花音は心配そうな顔を浮かべていたけれども、私が普通の顔で帰ってくれば本当に何でもなかったのだと納得してくれるだろう。
生徒が行き交う廊下を人の間を縫いながら進む。人がいないところに行きたかった。保健室で休んでも良かったが、もしそれが知られたらやっぱり具合が悪かったのかと花音に心配をかけてしまう。中庭は人がいる。屋上もこの時間は開放されている。きっと誰かしら人がいるだろう。となると自然と行く場所は限られてしまう。
校舎裏なら人がいないと思った。校舎の影になって日当たりは悪いし、地面はじめじめしているし、どこかへ通り抜けるための近道になっているわけでもない。足早にそこを目指すと思った通り人の気配は全くなかった。そのことに安心すると、体から一気に力が抜けた。しゃがみ込んで膝に顔を埋めて長く息を吐く。少しだけ気分が楽になる。
最近の私はどうもおかしい。
席替えをして仲の良いクラスメイトと近い席になって毎日が楽しいはずなのに、ふとした瞬間にそれはやってくる。柳を見ているのが突然つらくなって、逃げ出したいような気持ちになるのだ。それがどうしてなのか、理由は分からない。柳が私に嫌なことをしたわけではない。それなのにその場にいるのがつらいと思うときがある。実際に逃げ出してしまったのは今回が初めてだけれど。柳はさっきの私の行動をどう思っただろうか。
「」
ドキリと心臓が飛び上がる。顔を上げると目の前に柳が立っていた。
「どうして、ここにいるの」
「の様子がおかしかったからな」
私はトイレに行くと言ってきたのにどうして追ってきたのかも分からないし、おかしかったからって私が校舎裏にいるとは限らないではないか。どうしての答えになっていない。けれどもそれを指摘するような余裕が今の私にはなく、ただ柳の言葉を聞くことしか出来なかった。
「お前は場の空気を読んで行動することが特別上手い。本心を隠すのが上手いと言い換えることも出来るな」
そう言って柳が一歩私に近付く。思わず一歩下がれば再び柳が一歩近付く。じりじりと距離を縮められて気が付けば壁に追い詰められていた。まるで逃がさないとでも言うかのように柳が私の左手首を掴んだ。
「だが、今日のお前は明らかにいつもと違う。それを見抜けない俺だと思ってくれるなよ?」
ずるりと心の奥底から何か引きずり出されるような感覚がした。
「誰でも百パーセント素を出して生活することはないと思うけど」
「それは先程のことを認めた発言だと取れるが」
柳の瞳がのぞく。目が合ったらおしまいのような気がして、目をそらしたいのに体が動かない。必死で平静を保とうとするけれどもじりじりと頭の隅っこが焦がされているかのように熱くなる。柳のするどい眼光が私を捉える。逃れられない。
「言え。何を隠している」
ずるり。ずるり。引きずり出される。
「なんで……、なんで柳に言わなきゃいけないの」
無理矢理心を覗こうとしないで。勝手に入り込まないでほしい。私は柳にそんなこと許してない。
「データを取りたいとかそういうのだったらいい加減にして。誰にだって知られたくないことぐらいあるでしょ」
このデータだけは絶対に取られるわけにはいかない。何を隠しているのか自分でもよく分かっていないくせにこれだけは絶対に知られてはいけない気がした。彼はただの好奇心から私の考えを覗きたいだけなのだろう。でもそれだけで私の心の中に入られては困る。知られたくない、こんなどろどろとした感情を抱えているなんてことは。
「らしくないな。普段のお前だったらここはさらりと嘘を吐くところだが」
「いい加減にしてって言ってるでしょ!」
柳はこうして私を逆上させて吐かせようとしてるんだ。その手には乗らない。絶対に言ってやるもんかと意地になる。
再びぐるぐるとお腹の底で何かが渦巻く。柳が私を平気で嘘を付く女だと考えているのだと思うと悔しさと悲しさが混ざって暴れ出したい気分になる。私は花音のように清い存在にはなれない。
じわりと一瞬視界が滲んだ。ここで泣いたら今までの我慢が全て無駄になる。きっと涙を見せたら柳は追及の手を緩めてくれるだろう。けれども泣いてしまったらそれこそ柳に何かあるのだと教えるようなものだ。本気で隠したいのだったら、賢い柳には情報のかけらさえも与えてはならない。ぎゅっと手を強く握り込んで堪える。決して長くない爪が手のひらに食い込んだ。
「……すまない」
突然ふわりと空気が動いて、柳の手のひらが私の頭の後ろに触れた。柳の腕に力が込められ、一歩分だけふたりの距離が縮まる。
「すまない、やりすぎた」
先ほどまでの張り詰めた空気が一気に緩んでやさしいものになる。抱きしめられているというにはふたりの距離は開いている。けれども私が少し俯けば額が柳の肩口に当たる距離。するすると柳の指が髪を梳いていく。そのゆるやかな動きに気が抜けて今度は逆の意味で泣きそうになった。
「落ち着いたか?」
「柳のせいなのに。サイテー」
「だから悪かったと言っている」
「それ謝る態度じゃないよね」
そう言って軽く睨んでも柳は曖昧に笑って私の髪を撫で続けるだけだった。先程とは打って変わったやさしい手つきに同じ人物なのかと疑ってしまう。
「……花音に同じことやったら許さない」
「心配しなくても吉川にこんなことはしないよ」
そうだね、私が言わなくたって柳は花音にやさしい。大切にしてくれる。柳にとって花音は特別だから誰よりもやさしくするだろう。またぎゅうと胸が締め付けられるように痛んだけれど、それには気付かないふりをした。
「こんなことを言ったらまた怒られるかもしれないが、今日はの新たな一面が見れて嬉しかった」
「いいデータが取れたってことですか」
「いや、俺は嬉しかったと言ったんだ。額面通りに受け取れ」
「意味分かんない」
先程までの柳がいつもの柳らしくなかったのだ。あんな風に迫る柳を見たことがない。覗いた瞳は何か強い意志を持っているかのようだった。まるでギラギラとした獣のような。自分で比喩しておきながら知的な柳とはあまりにもかけ離れたイメージでおかしく思う。
「あんなを見たことがあるのは俺だけだと思うと気分が良い」
「な、なにそれ、嫌味?」
その問いには応えず柳は曖昧に笑う。私がはぐらかそうとすると追い詰めるくせに、柳はいつも肝心なことは口に出さない。
「それと、人に言えない悩みもあるだろうが、話せる内容なら俺でよければ頼ってほしい」
柳のやさしさからくる言葉に純粋に嬉しくなる。私を思ってのことは嬉しいけれども、今回は柳には言えない部類のことだった。
「お前はいつもごちゃごちゃと考えすぎなんだ」
「それ、柳に言われたくない」
「フッ……それもそうだな」
その言葉が合図だったかのように柳は私の頭を撫でていた手を止め、一歩あとずさった。ふたりの間に距離が空いて初めて、今までどれだけ近い距離にいたのか意識された。体は密着していなかったものの、あれはほぼ抱きしめられていたと言っていい体勢に恥ずかしくなるとともに誰にも見られなくて良かったと安堵する。
「ほら、教室に帰るぞ」
振り返って私を待つ柳の声が一層やわらかいものだったから私はまたなんだか胸がくすぐったいような不思議な気持ちになりながら柳についていった。
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