朝練が終わったあと、少し友達と喋ってから教室に行くとチャイムの鳴る五分前だったからか既に教室内はざわざわと話し声でいっぱいだった。クラスメイトたちに「おはよー」と挨拶を交わしながら窓際の自分の席に着く。
「おはよう」
既に登校していた柳に挨拶をして鞄の中の教科書やノートを机に移す。いつもは余裕をもって登校してくる花音がこの時間に教室にいないなんて珍しいななんて考えていると、柳がじっとこちらを見ていることに気が付いた。
「夜更かしでもしたのか?」
そう言って柳はすっと目を細める。眉間にしわを寄せて不機嫌そうな顔だ。
「えっ、なんで?」
「いつもより顔色が良くないし、目の下に隈も出来ている」
そんなに隈はひどかっただろうか。昨晩コンクールの曲の楽譜を見直していたらうっかりいつもの就寝時間を過ぎてしまっていた。朝練もあるのでいつもより少し睡眠時間が短くなってしまったのだ。朝、鏡でチェックしたときは確かに隈が出来てはいたが、うっすらという程度だったので大丈夫だと思ったのだけれど。
「、柳くん、おはよう」
登校してきた花音のおかげでそれ以上のお小言は避けることが出来た。私はおはようと返したが、柳は挨拶の代わりに「はぁ……」と溜め息をひとつ吐いた。
「吉川も、だな。ふたりとも今日はおとなしくしていた方がいい」
柳の言う通り花音の顔はいつもより青白かった。私なんかよりよっぽど具合が悪そうに見える。思わず「顔色悪いけど大丈夫?」と尋ねれば花音は「平気だよ」とにっこり笑って返してくる。けれどその笑顔もどこか強張っているように見えた。
*
三時限目の体育が終わって、ぞろぞろと廊下を歩いていたときのことだった。
「そろそろ外で体育やるのも暑くてつらいよねー」
「次は体育館でやる競技を選ぼうよ」
青山さんたちクラスメイトとそんな雑談をしながら更衣室から教室へ向かう。確かに今日も日差しは少し強かった。でも時折吹く風はまだ真夏のそれにはまだ程遠い。どちらかというと梅雨の名残の湿度の方が問題で蒸し暑く感じることの方が多かった。汗が肌にまとわりつくようで、じんわりと思考を溶かしていくような暑さだった。
不意に、前方に柳の姿を見つけた。男子はもうとっくに着替え終わったらしく、鈴木たちと歩いている。
声を掛けようかと考えていると、隣でドサリと音がした。「えっ」と思って視線を落とすと、隣を歩いてはずの花音の姿は消えていて、床に黒い髪が散らばっていた。
それが倒れた花音の姿だとすぐには認識出来なかった。
「花音!」
私の口から漏れた声はほとんど悲鳴だった。自分からこんな甲高い声が出るなんて今まで知らなかった。まるで自分じゃない別の誰かの叫び声を聞いているような気分だった。口の中がカラカラに乾いて、思考がどんどん麻痺していく。
今まで見たことがないほど青い顔をして振り向いた柳と目があった。
「どうした」
「柳、花音が……」
自分の声が余りにも弱々しくて驚いた。こんな震えた声では伝わらないのではないかと思ったけれど、私が皆まで言う前に柳が花音の体を抱え上げた。きゃあと周りから黄色い悲鳴が上がる。しかし柳はそんなこと意も介さないかのように「保健室まで連れていく」と短く言って歩いていく。
柳の声にいつものような余裕はなく、腕の中の病人を気遣って走り出しはしないもののいつになく焦っていた。一瞬遅れて柳の後を追う。柳は走っていないはずなのに、私がどんなに急いで足を動かしても彼に追いつけない。どんどん距離が離されていく。後ろからでは花音の様子が分からなくてむくむくと不安だけが大きくなっていく。花音の顔色が悪いことは柳の言葉で知っていたのに。花音のことを気に掛けてあげなきゃいけないことは分かっていたはずなのに。彼女の限界が来る前に休ませなきゃいけなかったのに、気付けなかった。
「花音」
保健室の扉を開けると中には男子生徒の背中がひとつあるだけで、私の声は静かな室内に響いた。私の想像とは裏腹にカーテンがふわりと舞って爽やかな風を呼び込んでいた。
「や、なぎ……」
「か」
そう言って振り向いた柳の顔はいつもと同じで冷静さを保っていた。廊下を必死で走ってきて息が切れている私とは対照的だった。ちらりとベッドのある方を見るとふたつのベッドがカーテンで囲まれている。きっとどちらかに花音が寝ているのだろう。でも、様子は見えない。再び不安が押し寄せてくる。はぁはぁと自分の吐く息の音だけがやけに大きく聞こえた。
「先生は今吉川の親御さんに電話を掛けに行った。しばらく寝ていれば良くなるだろうが今日はもう無理せず早退した方が良いとのことだ」
「……花音、大丈夫なの?」
やっと出てきた声はあまりにもか細く、震えていた。まるで喋り方を忘れてしまったみたいだった。
「ただの貧血だそうだ。疲れが溜まっていたんだろう」
「本当に……?」
「本当だ。だから落ち着け」
柳は無意味な嘘は吐かない。柳の表情は真摯そのものだった。両肩に柳の手が置かれたのを合図に力が抜ける。それまで相当体に力を込めていたのだろう。私が緊張を解いたのを見て、柳も表情を緩めた。
「いい子だ」
そう言って柳は私に合わせて屈めていた姿勢を元に戻した。柳との距離が離れる。いや、さっきまでが近すぎたのだ。
「俺達は教室に戻ろう」
「でも」
「先生なら直に帰ってくる」
運ばれてきたばかりの生徒がベッドで寝ているのだからそう長くは空けないだろう。けれど、それでも先生が帰ってくるまではここに残っていた方が良いのではないかと思った。いや、そんなことは関係なくただ私が残りたいだけだった。花音のそばにいた方が安心出来るし、養護教諭から詳しい話を直接聞きたいという気持ちもあった。
「それに他にも寝ている生徒がいる。あまりここで騒がしくしては彼に迷惑だろう」
カーテンで覆われたベッドの上には確かに誰かが寝ているようだった。話し声がしては眠れないだろう。こればかりはいくら花音が心配でも仕方がない。
柳に促されるままに保健室を出ると丁度養護教諭が戻ってくる姿が見えた。柳の言った通りだった。軽く会釈をしてあとは任せることにした。
もうすでに始業のチャイムは鳴った後らしく、廊下は先ほどの喧騒が嘘のように静まりかえっていた。その中をふたり並んで歩く。
「授業遅刻、だね」
柳からは返事がない。やはり花音のことを考えているのだろうか。私がいる手前教室に戻ろうと言ったが、柳自身は花音のそばにいたかったのではないか。もしそうだとしたら悪いことをしてしまった。私は気付かないままに柳の邪魔をしてしまったのではないかという考えが頭を占める。いつもうまく立ち回れていたのに今回は余計なことをしてしまった。
ふっと柳が視界から消える。立ち止まったのだろう。後ろから「」と名前を呼ぶので何事かと私も歩みを止めて振り返ると、予想以上に近い距離に柳が立っていた。驚きで思わず息を詰めると柳の指先が私の頬を滑った。
「顔色が悪い」
するりと頬を撫ぜる指は冷たくて気持ち良かった。冷たい指なのに触れた皮膚の内側からピリピリと痺れるような感覚がする。触れたのはほんの短い時間だ。力も強く押し付けられたわけじゃない。それなのに柳のなぞった場所は柳の指の感触をずっと残していた。撫ぜた指は一瞬まるで名残惜しむように空中で止まったが、そのまま下ろされた。
「今朝も言ったが無理はするな。お前まで倒れたらどうするんだ」
倒れたら今度は私を柳が運んでくれるだろうかとか一瞬考えてしまった。柳は私が倒れたらあのときのように慌てた表情を見せてくれるだろうか、とも。
「倒れないよ」
自分の体調は自分が一番よく分かっている。私は自分に甘いからちょっとでも体がだるければ休む。自分の限界は把握しているつもりだ。だから、柳は花音のことだけを心配してればいいんだ。私のことなど構わずに。
「それに、今柳が忠告したことで私が倒れる確率は低くなったでしょ」
「フッ、そうだな」
そう言って笑う柳の姿は普段と変わらなかった。私が誤魔化すように「早く行こう」と歩き始めればすっと柳が隣に並ぶ。
私が柳に抱えられるなんて馬鹿馬鹿しい。ありえない。私はそんなガラじゃない。柳だってそう考えているだろう。倒れてお姫様抱っこされるのは間違っても私じゃない。一瞬でもそんなことを考えてしまった自分が恥ずかしい。私は柳とこうやって言い合っている方が似合いなのだ。
だから、左頬に残る指の感触も早く消えてしまえ。
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