梅雨に入ると少し憂鬱な気分になる。雨が降っていると外はどんよりと薄暗いし、登下校時に足元が濡れるのは鬱陶しい。髪が湿気とじわりと滲んだ汗で首筋に張り付く。室内で雨の音を聞いている分にはいいのだがこうして外に出なくてはならないときは厄介だなと思う。ただ、雨の日は雨音が雑音を掻き消してくれるから、ゆっくり考え事をするのに向いているとは思う。

キュッキュと湿気で濡れた床に上履きを鳴らしながら花音たちの廊下側の席に近付くと柳がちらりと一瞬視線を上げた。何か話したいことでもあるのかと思っていると柳は私が花音に声を掛ける前に口を開く。最近は柳が声を掛けてくるタイミングが分かるようになった。柳はこちらを向いてから声を掛ける前に一拍置くのだ。

「この間図書室で借りたシリーズだが、すべて読み終えた」
「えっ、もう読み終わったの? どうだった?」
「なかなか良かった。ふたりが夢中になるのも分かる」

自分の好きなものが他人に理解してもらえるのは嬉しい。特に本を沢山読んでいる柳に認めてもらえるのは他の人に言われるより嬉しかった。花音も同じ気持ちだったらしく珍しく身を乗り出してきた。

「柳くんもこの作家好きなの? 他の作品も読んだりしてる?」
「今読んでいるもの以外ではこの作家の代表作と言われるものしか読んでいないな」
「柳くんあれも読んだんだね。私もついこの間読んだんだけど代表作と言われるだけあってすごく良かった」

あの作家は少年少女の揺れる心情を描くのが上手いだとか他の作品ではミステリ的な仕掛けを施してあることで話題になっているだとか次の何とか賞の候補として有力だと言われているとか、ふたりは珍しく小説談義で盛り上がっていた。ここまでくると私は話についていけない。ふんふんと分かったような顔で頷くだけである。

ふたりともいつになく饒舌だ。やっぱり人は好きなもののことになるとお喋りになるのは柳も花音も同じらしい。今まで見たことないくらいふたりの会話は盛り上がっている。もしかしたら私の知らないところでふたりは仲良くなっていたのかもしれないなとぼんやり思った。図書室なんかではいくらでもチャンスがあっただろう。

何より、柳は私から花音の話を聞きたがった。それこそが柳が花音を好いている証拠のように思えた。私から花音の情報を集めようとしているのか、好きな子のことを聞きたがるのはいかにも柳のやりそうなことに思えた。あのときの柳のやわらかい表情は打算も何もないように思えたから、きっと純粋に好きな子の話を聞いて頬が緩んでしまったのだろう。柳蓮二は一見恋とは無縁に見えたが、同時に花音のような女の子に惹かれるのはまるで自然なことのようにも思えた。

そんなことを考えながらふたりを見ていると不意に柳が振り返った。

も読むか?」

突然こちらに水を向けられたものだから驚いた。自分にはよく分からない話が続くのだと思って正直あまり真面目に話を聞いていなかったものだから一瞬何の話だか分からなかった。

「その代表作なら俺が持っている」
「貸してくれるの?」
「お前が読むと言うのならな」

今まで私は図書室で本を借りていたのだからその本も読みたいならば図書室で借りればいい話なのだ。それなのにわざわざ柳個人の本を借りるのだろうと思っていると柳がその思考を読んだように口を開いた。

「図書室まで行く手間が省けるし、返却期限を気にする必要もない。図書室で借りるより手間が省けると思うが」

どうやらこの間図書室の閉館ギリギリに駆け込んだことを指しているらしい。確かに柳に借りれば教室で受け取って教室で返せばいいだけだから楽だ。理に適っている。この作家の他の作品も読んでみたいと思っていたところだから柳が貸してくれるというのならば断る理由もない。

「じゃあ、借りようかな」
「では明日持ってくる」
「ありがと」

柳は私に対しては少し嫌味な部分もあるものの基本的に真面目で面倒見が良く、何より人の話をきちんと聞いてくれる。花音は少し内気な部分があって、なかなか言いたいことが言えないときがあるのだけれども柳だったらきちんと花音が口を開くまで待ってくれるような気がする。だから、少しだけ、応援してあげてもいいかなという気になった。

「あのさ、花音。テニス部の試合、見に行こうよ」

私がそう言えば柳の動きがピタリと止まった。珍しく動揺しているらしい。さすがの柳でも私からこんな風に言い出すとは予想しきれなかったようだ。

「急な心変わりだな?」
「誰かさんがしつこいからね」

柳の後押しをすることに決めた。しかし、そうすると気になるのは幸村精市の存在である。幸村はきっと花音に好意を抱いているはずだ。同じクラスになったことはないものの、委員会を通して去年からの知り合いだ。クラスが違うにも関わらず頻繁に会いに来たり、勉強会を提案したり、試合を見に来てほしいと誘ったりと積極的に動いている。これで花音に気がないのだとしたらひどい天然タラシだ。恋愛事に少し鈍いところのある花音だから何とも思っていないようだが、幸村のように人気のある男の子からこんな風に頻繁に声を掛けられたら普通勘違いしてしまう。幸村もそれに思い至らないほど馬鹿ではないと思う。

「私次の日曜は部活午後だけなんだ。ね、一緒に行こうよ」

正直、私はこの幸村のことをあまりよく知らない。『テニス部の幸村精市』は知っているけれども、彼自身のことはあまり知らないのだ。だから気持ち的にはクラスが一緒で多少なりとも親しくなった柳に肩入れしたくなる。もっとも、この間まで柳だって『テニス部の柳蓮二』しか知らなかったわけだけれど。

テニス部の試合を見に行くのであれば幸村にも平等にチャンスはある。柳と花音をふたりきりにするわけでもないからいいだろう。ここから先どうするかは柳次第だし、幸村次第だ。

「私こそが行くなら行きたいな」

元々花音は幸村の勢いに押されぎみだった。ひとりで行くのは心細いからと渋っていただけで私が一緒ならば必ず頷くはずだった。

「というわけでいいよね?」
「ああ。ふたりが来れば精市も喜ぶだろう」

柳の言う通り、熱心に誘っていたのは幸村だった。この話を聞けば確かに幸村は喜ぶだろうそう思うと同時に柳もどこか浮かれているように思えた。柳も喜んでいるのだとすればこの計画の半分は成功だ。

「時間と場所、間違えるなよ?」
「大丈夫だよ! 失礼な!」
「柳くんは心配性だね」

そう言って花音が笑う。同じ柳の言葉に反応するにしても、私と花音ではこんなにも違う。私なんかが柳の言葉尻を捉えてつっかかってしまうのに対して、花音はとてもおおらかだ。こういうところも柳と合っている。

「それよりも日曜日雨降らないといいなぁ」
「この週末は久しぶりに晴れる予報だったが」
「じゃあ安心だね」

花音も楽しそうで、やっぱり提案してみて良かったなと思う。花音に誰か特別な人が出来てしまうのは寂しい。もし軽い気持ちで花音の近付いてくる男がいたら私は全力で阻止していただろう。でも、柳は違う。柳蓮二という人間を私は多少なりとも認めている、ということなのだろう。

花音と柳の会話を聞きながらちらりと廊下の向こうの窓を見ると、雨は先ほどより少しだけ弱まっているようだった。

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