部活が終わってすぐ、私は図書室へ急いでいた。廊下の角を曲がると、図書室の前に見知った人物が立っていて驚いた。その人物は今まさに図書室に入ろうとしていたところらしく、この時間に図書室を利用しようとする生徒が自分の他にいたことにも驚いた。二重の意味で驚いた私の脳みそは一瞬思考を停止してしまったらしく、気が付くとぽろりと言葉が出てしまっていた。

「あれ、柳だ」

私の声に柳がドアに掛けた手を止めて振り返る。

しまった、と思った。

先日の放課後といい、最近ひとりきりのときに柳によく会う。単にタイミングの問題なのだろうけれど、普段は隠している本音をぽろりと喋ってしまったことが恥ずかしいから柳とふたりきりは少し避けたかったりする。

か」

そう言って柳がドアを開ける。ふたりきりは避けたかったはずなのに、なんだか成り行きで柳と連れ立って図書室に来たみたいになってしまった。

図書室に入ると柳はちらりとカウンターとその奥の準備室に目をやった。その視線を追うとカウンターには女の子がひとり図書当番として座っていた。制服の着こなし方からして一年生らしい。その図書委員の子もこちらの視線に気付いたのか目が合ってしまった。

「今日は花音の当番の日じゃないよ?」
「どうやらそのようだな」

そう言って柳は視線を私へ戻す。背の高い柳に真っ正面から見つめられると少し緊張する。自分から話掛けた手前、このまま会話を終わらせるは出来ない気がして口を開く。

「こんな時間にどうしたの?」

部活をやっている生徒がこの時間に図書室に来ることは滅多にない。急がなければ図書室は閉まってしまうし、運動部となれば一回校舎に戻って来なければならないので手間だ。私自身も部活終わりに図書室へ駆け込むのは少し面倒くさかった。

「今日が返却期限だった本を返し忘れてしまってな」
「へえ、柳が返却期限を忘れるなんて意外」
「俺だってうっかりすることもある」

当然柳だって人間なのだから、本人が言うようにうっかり物事を忘れてしまうこともあるだろう。それは分かっていて、悪いことではないと思うのだけだと、あまりにも柳のイメージとかけ離れていておかしく思う。私はいつの間にか柳蓮二を完璧人間だと思い込んでいたらしい。

「そう言うも本を返しに来たのだろう?」
「残念ながら私は返却期限忘れてないよ。昨日まで読んでた本が読み終わったから返して続きを借りようと思って」

そう言って手に持っていた文庫本を掲げてみせる。もっとも、期限に余裕はあるものの本来なら昼休みに返却するつもりだったのを忘れてしまったのだけれど。続きが気になって早く読みたいからこの部活が終わったあと、図書室が閉まるギリギリの時間に駆け込んだのだ。

「休み時間に吉川と話していたシリーズ物か」
「そう。ふたりしてはまっちゃってさ」

どうらや柳は花音の前の席だから私たちの話す声が聞こえたらしい。聞かれて困る内容ではないので構わないのだけれど、さすが無駄に情報を集めている柳だなと思った。

「早く続きが読みたいとも言っていたな」
「花音が珍しく強く勧めるから読んでみたんだけど面白くて」
「なるほど。このシリーズのタイトルは知っていたが読んだことはなかったな」

いわゆるベストセラーではないが新刊が出れば必ず平積みされる作家の作品だ。

「オススメするよー」
「では借りていくとしよう」
「えっ」
「何か問題でも?」

私達が騒いでいたのは野球少年を主人公にした青春小説。爽やかな文体と中学生の等身大の姿を描いていると評判で、現在三巻まで刊行されているものだ。内容は私と花音の話を聞いていたのならある程度は分かるはず。正直柳が読みたがるとは思わなかった。

「読み終わって返すのだろう? 俺も借りていた本を読み終わったところだ」

そう言って柳は私の手から文庫本を奪うと勝手にカウンターへ向かってしまう。返却手続きを代わりにしてくれるのはありがたいが代理返却は図書室のルールとしていいのだろうか。この場に本人がいるのだから私がカウンターまでついていけばいい話なのだけれど、柳は図書委員の女の子に適当に上手く話をつけたらしい。私が新しい巻を持ってカウンターに並ぶと柳が「すまないな」と図書委員に言っているのが聞こえた。図書委員に借りる本を渡すと手際良く手続きを済ませてくれた。無事目的を果たして、「じゃあこれで」と帰ろうとすると柳に「待て」と呼び止められた。

「昇降口まで一緒に行こう」

そう言って柳が私の隣に並ぶ。少し驚いたが柳の方にはきっとまだ何か話したいことがあるのかもしれない。今日は部活の友達と一緒に帰るつもりで待っていてもらっていたのだけれど昇降口までなら問題ないだろう。そう思って隣に並んで歩くのを許せば、彼はタイミングよく口を開いた。

「吉川の書いた小説を読ませてもらった」

何かまだ用事があると睨んだ私の予想は正解。柳はこのことを話したかったらしい。 そういえば文芸部の部誌を読むことも勧めたのだった。私がその話をしたのはつい数日前だというのにもう読んだというのか。

「早いね」
が絶賛するのも分かったよ。主人公の目に映る風景を描写するだけでもなかなか綺麗な表現をする」

花音が褒められたことに私まで嬉しくなる。柳が分かってくれたことが嬉しかった。

「その話花音にした?」
「いや」
「多分柳の今の言葉を花音が聞いたらきっとものすごく照れると思うよ」

この言葉を花音が聞いたらどんな反応をするだろうと想像して口元を緩める。

「私が褒めたときはマフラーに顔を埋めて隠してたけど耳まで真っ赤でさー」

私が彼女に読んだ感想を伝えたのは冬だった。私がすごいすごいとまるで子どものように稚拙な言葉で彼女の小説を褒めると花音は異常に照れた。必死に赤くなった頬をマフラーで隠そうとしていたが、頬は隠せても赤く染まった耳までは覆いきれなかった。

「それでね、そのときの花音が」
「お前は本当に吉川のことばかりだな」

私の言葉と柳の声が被ってしまった。柳のその一言で私はまた友達自慢をしてしまっていたことに気がついた。柳は静かに話を聞いてくれるからつい喋りすぎてしまう。

「ご、ごめん」
「いや、お前から聞く吉川の話は面白いよ」

もっと話を聞かせてほしい。そう言って柳が目を伏せた。小さな笑いが落とされるのと同時にのぞいたその瞳はとてもやさしい色をしていた。

その様子を見て、ふと、柳は花音が好きなのかもしれないと思った。

花音が好きだから彼女の書いた小説を短期間で読んだ。花音が好きだから彼女が勧めたという本を読む。花音が好きだから私とも親しくする。花音が好きだからそんなにやさしい表情をする。そう考えると筋が通る。

続いてふたりが並んで歩く姿を想像してなかなかお似合いなのではないかと思った。花音は柳と同じく読書が趣味だし、大人しくて真面目なあたりも柳に似ているから花音が柳に慣れれば気が合いそうだ。花音が柳に取られてしまうのは少し悔しいけれど、柳ならば花音を大切にしてくれるだろう。柳が悪いやつではないのはよく知っている。

「……?」
「私が面白いんじゃなくて、花音が面白いんだと思うけど?」

妙な間が空いてしまったのを、わざとボケたことを真顔で言ってごまかす。上手く誤魔化せたはずだ。ここで花音のことを突っ込んで聞いても良かったのだけれど今私が聞いても柳は教えてくれないような気がした。どう考えても他人に恋愛相談するようなタイプには見えない。

「フッ……、お前も相当面白い人間だぞ」

それはどういうことだと問い詰めようとしたところで「今日はここまでだな」と柳が言う。気が付くといつの間にか昇降口まで辿り着いていた。

「俺は部室に戻る」
「あれ? 練習終わってないのに抜けてきたの?」
「いや、練習は終わったがまだ部室でやるべきことが残っている」
「……データ整理とか?」
「正解だ」

そう言って柳がまたフッと笑う。その瞳は明らかに先ほどのものとは違った。やっぱりさっきのやわらかな色をもった瞳が特別だったに違いない。

「また、明日」
「うん、また明日ね」

ひらひらと手を振って別れる。先日の放課後といい、最近ひとりきりのときに柳によく会う。ふたりきりで話をするたびに柳の意外な一面を垣間見ているような気がする。

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