最終下校時刻が近付く中、私はひとりで校舎の脇を歩いていた。部活も終わり、普段だったら部活の友達とわいわい喋りながら帰るのだけれど、今日は友達が同じ楽器の先輩後輩とパフェを食べ行くだとか歯医者に行くためバスを利用するだとかが重なってひとりになってしまったのだ。ひとりならひとりでさっさと帰ってテレビでも見ようと足取りは自然と速くなる。
東門から出て帰るためにはテニスコートの横を通らなければならない。
ちらりとテニスコートの様子を窺うとテニス部は丁度練習が終わったところらしい。一年生が片付けを始めるためコート内を走り回っていた。吹奏楽部も下校時刻ギリギリまで練習しているが校舎の施錠の関係上、外で活動している運動部より早く片付けなくてはならない。ギリギリまで練習出来るのは羨ましい限りだ。
テニスコートを見るとあのふたりに練習を見学しに来ないかと誘われたことを思い出す。あのとき「行かない」とはっきり断ると柳は表情を崩さず「まあいい」と言ってあっさり引いた。しかしあの柳のことだからまだ何か次の手があるのだろうとは思っていたが、「これ以上俺が何を言っても変わらないだろう。だが吉川が頼めばお前は折れる。違うか?」と言われ、反論出来ないところが悔しかった。
そのことを思い出しながらぼんやり歩いていると不意に「」と名前を呼ばれた。振り向くとジャージ姿の柳が立っていた。よりによって一番会いたくない人物に見つかってしまった。
「見に来てくれたのか?」
「今ちょっと通りかかっただけ。こっちのが早く終わったみたいだったから」
慌てて言い訳を口にする。練習を見学したりはしないと言っていたのにテニスコートを見ていたなんて格好がつかない。いや、本当は今来たところで練習は何も見れていないのだけれど、ここにいる時点でテニス部に興味があるみたいじゃないか。柳に何て言われるか。そう考えると素直に答えられなかったのだけれども柳にはそれもすべてお見通しらしい。
「嬉しいよ」
絶対にからかわれると思っていたのに柳の口から発せられたのは予想外の言葉だった。しかも一瞬柳が微笑んだような気がして私はぽかんとしてしまった。いつものにやりという形容が似合うものじゃなくて、ふっと溢すような柔らかい笑顔のように見えた。
「少し待っていてくれないか? 話がしたい」
「いいけど」
「ありがとう。すぐ戻る」
そう言って柳の後ろ姿が部室に消えていく。なんだったんだ、あれは。いつもの柳らしくない態度に戸惑う。そもそも柳が私に話したいことってなんだろう。柳のいつになく柔らかい態度から察するにお小言を言われるわけではなさそうだ。だとしたら何か私に頼みごとをしたいのか、それとも相談ごとがあるのか。そのどちらも検討がつかないが。柳なら私なんかが手伝わなくても何でも出来そうな気がした。
「あれ、さんじゃないか」
名前を呼ばれ振り向くとそこにはジャージ姿の幸村が立っていた。私がこの場にいるのがよほど意外だったのか目を丸くさせている。
「吉川さんは一緒じゃないの?」
「花音とは部活違うから普段は一緒に帰らないよ」
私は吹奏楽部、花音は文芸部に所属している。部活が違えば当然活動終了時刻も微妙にずれる。それにそれぞれ部活で仲良くしている友達がいるから滅多に一緒に帰ったりはしない。一緒に帰るのは部活が休みになるテスト期間中くらいだ。それを話せば幸村は「へーえ」と興味深そうに聞いていた。そんなに私たちはずっと一緒にいると思われていたのか。確かに男子に比べて女子は連れ立って行動することが多いからそういう風に思われてしまうのかもしれない。
「早速ふたりで練習を見に来てくれたのかと思ったのに残念」
「たまたま通りかかっただけですから。それに私は見に行かないって言ったし」
「そうは言っていたけど君が来る確率はゼロじゃない、だろ?」
そう幸村は柳の言い回しを微妙に真似る。幸村も柳の言う通り花音に頼まれれば私が断れないと思っているのだろう。これ以上この話を続けても私の都合が悪くなるだけなのでなんとか別の話題にすり替えられないだろうかと考えていると、幸村が「あ」と声を上げた。
「待たせたな」
声に振り向けば、制服に着替えた柳が立っていた。鞄もきちんと肩に掛けている。それでもって「行くぞ」なんて言うものだからどうやら一緒に帰る流れらしい。コート脇で少し話すだけのつもりでいたから驚いたが今さら断るわけにもいかないので何とも思っていないふりをする。
「へえ、さんは蓮二を待ってたんだ?」
「幸村も一緒に帰る?」
「いいのかい?」
「精市」
私の言葉に乗った幸村の声を遮るように柳が静かな、しかし強い語調で幸村の名前を呼ぶ。
「冗談だよ。実はこれからちょっとやらなきゃいけないことがあるからまだ帰れないんだ」
「大変なんだね、お疲れさま」
「ふふ、ありがとう」
それだけ言って幸村はコート脇に立っているおそらく先輩だろう人の方へ向かって行った。幸村は本当に冗談のつもりだったみたいだが彼がサボるのをすかさず止めた柳は普段から幸村を補佐する役目らしい。さすが参謀と呼ばれる人物なだけある。「行くぞ」と再び言って歩き出すので私が慌てて追いかける。小走りになりながらも隣に並ぶと柳が歩調を緩めてくれたので安心して歩く。
「精市と話していたのか?」
「うん。幸村は部活終わったあともやることあるなんて大変だね」
「精市は部内ですでに中心的な存在だからな」
「幸村ってテニス部で頼られてるんだ」
「そうだな、俺も精市を信頼している」
そう言う柳の言葉には嘘も誇張もないように思えた。前を見つめる視線はまっすぐで、強い意志みたいなものを感じた。
「どうした?」
「いや、柳が信頼してるって言うと本当に特別な感じがするなと思って」
「そうか? まぁ精市とは中学一年からの付き合いだからな」
「なんか、そういうのっていいなー」
きっとそれは私なんかじゃどんなに努力してもその位置には辿り着けないのだろう。そんな関係が少しだけ羨ましい。
「俺から見れば吉川はお前を信頼してるように見えるが」
「そう?」
「ああ、お前を慕っている」
柳がこんなことで嘘を吐くとは思えないので、きっと柳の目にはそんな風に映っているのだろう。少しくすぐったい気持ちになる。
「柳は花音が私のこと慕ってるって言ったけど、逆だよ。私が花音に憧れて、尊敬してるの。本当は私が花音の金魚のフン。私が花音と一緒にいたくて、あちこち連れ回してるだけ」
今日の私は妙に饒舌だ。こんな風に自分のことを喋るようなことは誰にでもするわけじゃない。先に柳が自身のことを話してくれたからだろうか。柳のまっすぐな言葉にあてられてしまったのかもしれない。彼になら話してもいいと思った。
「花音の書いた小説読んだことある?」
「いや、ないな」
「文芸部の文集に載ってるから読ませてもらうといいよ」
柳が読んでいないと答えたことを少し意外に思う。柳のことだから当然文集も読んでいるか、もしくはデータ収集のためにチェックしていてもおかしくないと思っていた。
「本当にすごいの。表現のひとつひとつが繊細だし、綺麗なの。同じものを見てるはずなのに花音の目にはこんな風に世界が映っているのかって初めて読んだときは感動しちゃった」
「がそう言うのならばかなりの文章力があるのだろうな」
「花音は本当にすごいよ」
力を込めて言うと柳が「そうか」とやさしい声色で言って笑いをこぼす。柳がこんな風によく笑うことを今日初めて知った。たまたま今日がそういう日なのか、柳と仲良くなれた証拠なのかは分からないけれど、こうして彼と親しくならなければ見れなかった表情だろうなと思う。
「自慢の友人なんだな」
柳蓮二という男はもっと感情を表に出さない人間だと思っていた。けれども実際関わってみると想像していたよりも口元をゆるめてやわらかい表情をする。参謀と呼ばれている柳しか見ていなかったらこんな表情をすることなんてきっと知らないままだった。
首を傾けて柳の顔を仰ぎ見ると、彼の髪が夕日に透けてキラキラと光って見えた。
柳はどこかへ寄る用事があるらしく学校を出て十分ほど歩いた先にある十字路で私とは別の方向に進んだ。別れたあともあの柳の横顔がちらちら瞼の裏に映って落ち着かなかった。
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