「遅い」
「すまない。少々想定外のことがあってな」
棘を含ませた声で柳に短く言葉を放ってみせたが相変わらず彼は涼しい顔を崩さなかった。
結局あの後、幸村の押しの強さに負けて四人で勉強会を開くという約束を取り付けられてしまった。ホームルームのあと、少し用があるから先に図書室に行っていてくれという柳の言葉に従って図書室で待っていたのだが柳が来たのはその二十分後で。しかもてっきり幸村を連れてくるものだと思ったのに彼の姿はなく、代わりに知らない男子学生が柳の後ろに立っていた。
しかも、癖の強いくるくるとした髪を持つ彼は、何やら不機嫌そうな顔をしてこちらと目を合わそうとしなかった。
「精市は急に用事が出来てしまい、来れなくなったとメールが入っていた」
そう言って柳は手に持った携帯を振る。
「代わりと言ってはなんだが、俺の後輩も一緒ではダメか」
そこでようやく柳は後ろの男の子の方へ意識を向けた。どうも見たことのない顔だと思ったら後輩だったのか。
「どうしても勉強を見てほしいと言って聞かなくてな」
「柳くんは後輩に頼られてるんだね」
「私達が柳を独占しちゃうのも申し訳ないし、構わないよー」
花音と私がそう答えると柳はほっとしたような表情を見せたが、それとは対照的に後輩くんの眉間のシワは先程よりも深くなった。もしかして彼は私達と一緒の勉強会は嫌なのではないだろうか。柳に勉強を見てほしいと頼むくらいだから、私達ばかりが頭の良い柳に質問してしまい慕っている先輩が取られるのをおそれているのだろうか。
「アンタが?」
随分と生意気そうな後輩を連れてきたなぁと思いながらも目を逸らさないでいると突然後輩くんが「痛っ!」と声を上げて頭を押さえた。
「仮にもお前の先輩だ」
どうやら柳に頭を叩かれたらしい。確かにちょっと生意気だなとは思ったけれど何も叩かなくたっていいじゃないかと後輩くんに少し同情する。どうやら柳は彼にとって厳しい先輩らしい。
「切原赤也っス」
しぶしぶといった形でもきちんと名乗る彼は根は良い子に違いない。「よろしくね切原くん」と挨拶すると彼はちょっとだけ表情を緩めた。どうやら少しだけ警戒を解いてもらえたらしい。
「私は吉川花音、よろしくね」
続いて花音が自己紹介をすると切原くんは花音のことも興味深そうに見ていた。私の名前を知っていたことといい、もしかしたら柳や幸村から何か私達の話を聞いているのかもしれない。
「と、とりあえず勉強始めよう?」
そう私が場を取りなすと、皆がぞろぞろと図書室に入る。いつもは静かなイメージの図書室もテストが近いせいか、多くの学生が利用していて普段よりも少しざわついていた。皆で勉強するのならば図書室は向かないのではないかと思ったが、この分なら小声で話すぐらいは問題なさそうだ。
「理系科目もきちんと勉強しろよ」
「分かってるってば!」
後輩くんの前でなんてことを言うんだ。切原くんを見るとぽかんとした顔をしていた。きっとこの人は普段から柳先輩に注意されているずぼらな先輩なんだとか思われたに違いない。
「切原くん?」
「あ、いや、何でもないっス。ところで先輩の得意科目って何?」
「文系科目なら大体何でも」
「じゃあ英語は?」
「出来る方かな」
「マジっすか! 俺に教えてくださいよ!」
「切原くん英語苦手なの?」
切原くん本人ではなく柳に向けて問えば「壊滅的だ」との答えが返ってくる。柳に壊滅的と言わせるとは一体どのレベルなのか。
「でも私より柳に教わった方がいいんじゃない?」
「嫌っスよ! 柳先輩の説明難しすぎて眠くなるし」
柳なら要領よく相手のレベルに合わせて難しい説明も噛み砕いて教えそうなのに、これはイメージと違って柳が教えるのが下手なのかそれとも柳の分かりやすい説明でも追いつかないほど切原くんの英語は壊滅的なのか。
「じゃあ見てあげるからとりあえずテスト範囲のワークやってみて」
一番奥の席に座りながら言うと切原くんは嬉しそうな顔をして私の隣に座る。何故か正面に柳が座り、残った柳の隣に花音が座った。なんだか変な席順だなぁと思いながら鞄の中から日本史のノートと教科書を取り出す。切原くんの勉強を見てあげるなら自分はあまり頭を使わない日本史のノートまとめをするのが一番いいだろうと考えたのだ。柳は生物のノートを取り出し、花音は数学の問題集を取り出す。一緒に勉強するというのにそれぞれ好き勝手に教科の勉強をするスタンスらしい。
「センパーイ、もう一問目からして分かんねぇ」
「はいはい。えーっと、これは文型の問題だね。この問題は第三文型だから」
「ブンケイ?」
「文型は第一文型から第五文型まであって、教科書のここに書いてあるから……」
柳の言う通り切原くんの英語は確かに壊滅的と言って差し支えないものだった。そもそも授業をあまり真面目に聞いていないのか、教科書を解説するところから始まった。最初の単元は中学の復習の要素が大きいからか、なるべく分かりやすい説明を心がけながら教えていくと最初は頭上にクエスチョンマークを浮かべていた切原くんも徐々に「うんうん」と頷いてくれるようになった。切原くんは飲み込みは早い方のようだ。
「じゃあこの問題を自力で解いてみて」
そう言うと切原くんは「うげー」と文句を言いながらもワークに取り組み始めた。
「あの、柳くん」
「なんだ」
「ちょっと質問してもいい? この問題が解説を見ても分からなくて……」
そう小声で花音が自分の問題集を少しだけ柳の方へ寄せて尋ねる。ちょっとだけふたりの距離が近くなる。自分も一緒に勉強しているくせに、このふたりが並んで勉強している様はまるで恋人同士のようだなぁなんて思った。
「出来た!出来たっスよ、先輩!」
「えっ? あ、本当。正解だよ切原くん」
「やった! 俺もやれば出来るんスよ!」
「はいはい、この調子で次の問題もちゃっちゃと解いてねー」
彼のワークの余白スペースにはぐるぐると無意味な線が残されていた。多分悩んで無意識に書き込んでしまったのだろう。自分の頭で考えようとした努力の跡があちこちにあった。切原くんのあまりにも嬉しそうな笑顔に思わずこちらも頬が緩んでしまう。
「このくらいラクショーっス!」
そう切原くんが嬉しそうに言うのを「赤也」と柳の静かな声が遮った。
「赤也、ここは図書室だ。あまりはしゃぎすぎるな」
その言葉に切原くんが『やっべ』と言うような表情をして私を見る。テスト前の図書室は友達と勉強する生徒で普段よりざわついているとは言え私もここが図書室ということを忘れて喋っていたので共犯者のような気持ちで彼と顔を見合わせる。すると柳が「」と今度は私の名前を呼んだ。
「赤也の面倒を見てくれるのは助かるが、自分の勉強は進んでいるのか?」
「まぁ、ぼちぼち。柳が心配しなくったってちゃんとやってるよ」
柳がどこか不機嫌そうな声だったので自分も問題集に向かう。勉強を教えるためとは言え、柳に注意された通り少しうるさくしすぎただろうか。シャーペンを握り直して気分を切り替える。
向かいから「はぁ」と柳が溜め息を吐く声が聞こえた。ちゃっかり後輩の面倒を私に押し付けているくせに何を疲れることがあるのか。
「切原くん、多分その次のページまで同じような練習問題が続いてるからそこまで終わらせちゃって」
「イエッサー!」
「分からないことがあったら質問してね」
そのあとはそれぞれ自分の勉強に専念した。切原くんに分からないところはワークの解説を読んでそれでも理解出来なければ質問するように指示すると彼はうんうん唸りながらも少しずつワークを進めていた。このペースで試験までに範囲が終わるかは疑問だが。
そのあとは切原くんが唸る声と時々花音が柳に質問するひそひそ声がするぐらいであとは静かなもので私も、ただひたすら日本史のノートをまとめることに集中する。
うちのクラスの日本史担当教師はとにかく板書が早い。黒板の右側だけを消したり書いたりして使うため急いでノートを取らなければならず、そうして写したノートは殴り書きで汚い。ペンを持ち替える余裕もないためこうしてノート提出前にわざわざ書き直さなくてはならないから重労働だ。もっとも、こうして書き写すのも勉強になるので案外これが先生の狙いかもしれなかった。
「」
「何?」
不意に柳に名前を呼ばれて顔を上げると柳の手がすっと動く。きれいな所作に目を奪われていると彼の手は私のノートの上で止まった。
「ここ、写し間違えている」
「えっ? あ、本当だ」
トントンと柳の指差す箇所を見ると確かに漢字が間違っていた。黒板からノートに写す時点で慌てていたからか、教科書を確認すると確かに字が違った。
「はケアレスミスが多い。基本は出来ているんだ、きちんと見直しをすればあと十点は上がるだろう」
「分かった、気をつける」
私が素直に返事をすると柳は満足したのか再び問題集に取り組み始めた。てっきりまた何か言われるかと思っていたので肩透かしを食らった気分だ。何か裏があるのかと疑ってみたけれど、柳はただいつもと変わらない涼しい顔でさらさらと流れるような文字でノートを埋めていくだけだった。
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