朝練が終わって教室へ向かう階段の途中で花音の後ろ姿を見つけた。丁度どの部活も朝練が終わり、それ以外の生徒も登校してくる時間で廊下はざわついていた。人の合間を縫って何とか後ろ姿に追いついて、ぽんと彼女の肩に手を乗せる。
「おはよう!」
「あ、。おはよう」
花音は部活の朝練がないのに登校するのが早い。遅刻したこともなければチャイムと同時に教室に駆け込むようなこともない。彼女は模範的な生徒だった。
「今日の英語、単語の小テストあったよねー」などと話ながら歩いていると、不意に花音が「あっ」と声を上げた。つられてそちらを見ると男子生徒がふたり並んで歩いている姿が視界に入った。そのうちのひとりはここ数日で見慣れた人物だった。
「げっ、柳……」
思ったままをつい口に出してしまえば、「まともに挨拶も出来ないのか?」と柳は相変わらず読めない顔で言う。読めないけれども、この発言は明らかに私を馬鹿にしている、と思う。先日『まるで子ども』と評されて以降、柳とはずっとこんな関係だ。顔を合わせれば皮肉を言い合う。
私と柳が睨み合っていると、柳の隣にいた男子生徒がすっと一歩前に出た。
「おはよう、吉川さん」
「幸村くん」
花音が笑顔でその男子に返事をしたので『あれ?』と思う。花音は人見知りなのでこんな風に声を掛けられて明るく振り返ることは滅多にない。花音と親しい男子がいたことにも驚いたが、その相手があのテニス部の幸村精市だったものだからさらに驚いた。
「幸村精市と知り合いなの?」
「幸村くんとは去年委員会が一緒だったの」
花音は確か去年は希望の図書委員になれず、美化委員を務めていたはずだ。ということは幸村精市も去年は美化委員をやっていたのか。この間テニス部の知り合いはいないと言っていたけれど花音は幸村精市がテニス部だということを知らなかったようだ。「幸村くんって柳くんと仲が良かったんだね、知らなかった」などと言っている。幸村なんて柳以上にテニスが強いと有名だというのに、花音らしい。
「今年も吉川さんは美化委員をやってくれると思ってたんだけどな」
「今年は他に希望している人がいたから……」
確かに美化委員は他に希望している女子がいた。それに引きかえ、図書委員はこのクラスでは花音以外に希望者がいなかった。そうでなくても普段からよく図書室に入り浸ってる花音なのだから図書委員をはじめから希望するのが自然だと思う。
「残念だな。今年も吉川さんと一緒に仕事出来たら嬉しかったんだけど」
こういうことさらりと言ってしまうあたり幸村は人気があるのだろう。確かバレンタインでは冗談かと思う数のチョコレートをもらっていた記憶がある。この顔でこういうことを言える男子高校生はなかなかいない。
「私も幸村くんと喋りながらお花のお世話するの楽しかったよ」
でも花音も負けてはいないのだ。しかも花音の場合お世辞ではなく素直な気持ちから言っているのだから世の男子高校生は堪ったもんじゃないだろうと思う。友人の贔屓目もあるが花音は屈託のない性格がかわいい。
幸村も花音が媚びているわけではないことを分かっているのか「ありがとう」とやわらかい声で返している。あの幸村精市に親友である花音が認められているのだと思うと誇らしい気持ちになった。
「、顔が緩んでいて気持ち悪いぞ」
「余計なお世話です」
せっかく花音のおかげであたたかい気持ちになれたというのに柳のせいでぶち壊しになった。
「花音、もう行こう」
私が歩き始めると花音は「あ、うん」と返事をして後をついてくる。
「あ、そうだ。花音次の日曜遊ばない? 私部活休みなんだ」
「いいよ。この間話してた雑貨屋さん?」
「そう!」
気分を変えるように花音を遊びに誘う。次に予定が合う休日があればという約束はしていたもののあれからもう二週間経っていた。
「もうすぐ中間テストだが遊んでいて大丈夫なのか」
柳はつくづく私の気分をぶち壊すのが好きらしい。
「大丈夫です」
「は理系の科目が苦手、ではなかったか?」
大丈夫だと言っているのに柳はしつこい。それに何故柳は私の苦手科目を知っている。
「典型的な文系だな。もう少し苦手な分野を集中して勉強した方が良い」
「それでも平均点は取れてるので」
私は文系の人間によくあるように理系の科目が苦手だが、赤点を取るほど壊滅的なわけではなく、他の教科に比べて少し点数が落ちるかなといった程度だ。ワークを中心に練習問題を解いておけばある程度の点数は取れる。それなりに勉強は出来る方だ。
「その割には授業を真面目に聞いていないようだが?」
柳の台詞に一瞬ぐっと言葉が詰まる。確かによく分からない問題が出されると解くのを早々に諦めたり、興味のない分野をやっているときはついうとうとしてしまうことが多い。苦手な授業こそしっかり話を聞くことが大切だという柳の言い分は正しい。正しいけれども柳が相手では素直に聞く気にはなれない。
それにしても柳は今年初めて一緒のクラスになり、しかも席が離れているのに随分と詳しくないか。これもお得意のデータなのか。この分だと私の去年の学年末テストの結果もすべてデータを取られていてもおかしくなさそうだ。
「放っておいてください」
「随分な物言いだな」
「柳が随分と上から目線なので」
私と頭の良い柳では正直彼が上から目線になるのも仕方がないほど差があるのだけれど、それにしたって他に言いようがあるはずだ。私にだって多少のプライドはある。わざとツンとすまして言うと柳の隣に立っていた幸村が一瞬目を丸くしたあと「ぷっ」と吹き出して大笑いしはじめた。
「君がさん? はは、大物だなぁ」
そう言って目元を拭っている。そんな涙が出るほど面白いことだっただろうか。それとも幸村は笑い上戸なのか。
「俺、さんのそういう勝てない勝負に挑もうとする姿勢嫌いじゃないよ」
「面白がってるでしょう」
幸村は「まさか」と言いながらも口元は緩んでいるし、新しいおもちゃを見つけたときのような目をしている。
「そんな風に蓮二に言い返せる人間はそういないよ」
私も最初はあの柳蓮二に言い返すなんてとんでもないと思っていたけれど、結局は慣れだ。
「蓮二もさんのこと気に入っているみたいだし」
「なあ、蓮二?」と幸村は柳に話を振る。何故そこで柳に話を振るんだ。気に入ってるって何だと思いながらちらりと柳を盗み見るとちょうど目が合って、ふっと柳が笑う。
「……そうだな、という人物は随分と興味深い」
気に入っているというよりは研究対象にされていると言った方が正しいんじゃないか。ジト目で睨んでやったが柳は相変わらず涼しい顔のままだった。
「そうだ、今度皆で一緒にテスト勉強でもしようよ。さんのこともっと知りたいし、吉川さんとは委員会が別れちゃって寂しいし。ね?」
「考えておいてよ」と幸村は花音に言う。私では絶対に首を縦に振らないと分かっているからだろう。誘われたのは花音であって自分は関係ないと、そのまま歩き始めると花音の代わりに別の人物がついてきた。
「ついて来ないでよ」
「生憎俺も同じクラスなものでな」
「、落ち着いて」と花音が追いついて来たのをきっかけに柳からふいっと顔をそむけ歩く速度を上げる。「やっぱり蓮二とさんって仲が良いよ」と言う幸村の声は聞こえなかったことにした。
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