、」と雷蔵が私を呼ぶ声が聞こえたような気がして振り向いてみたけれど、後ろに続く道に人影などひとつも見えなかった。

家から届いた手紙には、舞い込んだ縁談のことが書かれていた。私なんかにとってはもったいないほどの家柄で、周りの若者からも人望の厚い人物らしい。両親も彼は好青年だと言う。本人もどこで知ったのか私のことを気に入っていて、この縁談に乗り気らしい。こんな良い縁談またとないだろう。こちらに断る理由はない。

もしも、私が諦められるのならば。

これ以上の縁談なんてない、両親のことを考えるのならば受けるのが当たり前だと頭では分かっていてもちらつくのは彼のやさしい笑顔で。「」と私を呼ぶ心地良い響きを持った声が忘れられなくて。

両親からの手紙はこの縁談を受けるにしろ断るにしろ一度帰ってきなさいという言葉で締めくくられていた。

雷蔵、

小さく彼の名前を呟いてみる。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない。そう考えるとじくじくと心臓の辺りが痛むようだった。

私は行儀見習いで忍術学園に入学したのだ。当然両親は私を良いところへ嫁がせたいと思っているのは考えなくたって分かることだ。それなのに私は。両親の気持ちを考えるのならばこの縁談を結んだ方がいいのだろう。断ったところで得るものなどひとつもないのだ。

雷蔵と恋仲でもないのだから。

もし雷蔵が私を好いてくれていたのならば話は少し違ったかもしれない。せめて、想いを伝えてから学園を出れば良かったと思うけれど、もう遅い。それにもし言ったのなら雷蔵に迷惑を掛けてしまうかもしれないから、やはり黙って出てきて正解だったのかもしれない。


縁談の相手はどんな人なのだろうと想像してみようと思ったけれども、まったく考えられない。一度も会ったことのないのだから当たり前かもしれないけれど、私がその相手に嫁ぐ姿が思い浮かべられない。その人の隣で笑っている自分、その人と家庭を築く自分、どれもうまく想像できなかった。その代わりに思い浮かんでしまうのは雷蔵の姿で。どうしようもなく私は雷蔵のことが好きなのだと思い知らされる。

好きだ。もっと一緒にいたい。ずっととは言わない。せめて卒業するまでは。もう少しだけそばにいて、好きでいたかった。

「らいぞう、」

口に出してしまうと気持ちが溢れ出してしまいそうでこわかった。どうして私は雷蔵に気持ちを伝えなかったのだろう。せめて言えばよかったのに。私は後悔ばかりだ。未練たらしい女だと思うのに。何度も何度も頭の中ではと彼が私の名前を呼ぶ声ばかりが反響して仕方ない。

「雷蔵、」

そのとき左手が掴まれてぐいと引かれた。

自然と私は後ろを振り返る形になり、私の体は反転する。世界がぐるりと動いて青い空が見えた。よく晴れた空で、透き通っていて、吸い込まれてしまいそうだと思った。そしてその空の下には私が今まで歩いてきた一本の道が見えるはずだった。学園へ続く道が見えるだけのはずだった。

っ!」

ああ、きっとこれは夢なのだ。出なければ何だというのだろう。頭の中だけでなく、本当に名前を呼ばれているだなんて。望んだ人の必死な表情がそこにはあって。これは現実なの?

「行かないで」

切実な声で彼が言う。私の左手首を掴む力は存外強くて、少し痛いくらいだった。それがこれは現実だと知らせている。

「どうして、雷蔵がここに…?」

きっと雷蔵は誰かから私がこの縁談に乗り気でないことを聞いたのだろう。無理に結婚させられるなんてと私を不憫に思ったのだろう。きっとそれ以上に意味はない。雷蔵はやさしいから。

きっと雷蔵には私がこうして雷蔵に迎えに来てもらってどれだけ嬉しいのか分からないだろう。

私はずっと雷蔵が好きだったから、今すごく嬉しい。勘違いしてしまいそうなくらい。まるで御伽草子のようだと思った。想いあっている男女、女の家に持ち上がった他の家柄の良い男との婚約、それを必死で止めようとする男。女を迎えに来る男。私は雷蔵をその男に当てはめようとしている。勘違い、してしまう。嬉しい嬉しいと思う反面、来ないでほしかったとも思う。きっと雷蔵が口を開けば、彼が私を友達だと思っていることが分かってしまうから。


「それは僕がのこと好きだから」


息が詰まってしまうかと思った。でもこれはきっと勘違いだ。好きだというのはきっと友達としてだ。大切な友達だから、放っておけなかった。そういう意味に決まってる。私はそう思い込もうとしていた。

「何も伝えられないまま終わってしまうのは嫌だと思ったから」
「らいぞ、」
「こんな勝手なことして迷惑だったらごめん。でもきちんと責任は取るよ」

私の口からは雷蔵雷蔵と彼を呼ぶ言葉しか出てこない。その先に言いたいことは沢山あるはずなのに何も出てこない。ぱくぱくと口を開いては閉じて、空気を取り込むだけだ。

「もしも君が僕のことを選んでくれるなら駆け落ちする覚悟もあるから」

彼ははっきりと言い切った。迷い癖のある彼が悩みもせず真っ直ぐ私の瞳を見て言った。彼の中で選択肢はひとつしかなかったのか、それともここまで散々悩んだ結果なのか、私に知る術はない。

「僕のお嫁さんになってほしい」

そう言って雷蔵は私の手を取った。そのあたたかい手は以前一度だけ触れたものと同じで。これは夢幻でも偽者でもない本物の雷蔵なんだと理解した。もしも、雷蔵が私が好きだと言ってくれたならどんなに幸せだろうと考えていた。それが今現実となっている。

「ごめん、迷惑だった?」

雷蔵の右手が離れて私の頬を拭って初めて私は涙を流していることに気が付いた。悲しいはずがないのに。胸の中はあたたかいものでいっぱいではち切れそうだと思った。

「ちがうの、」

雷蔵はやさしく私の涙を拭って、私の言葉を聞いてくれる。私の瞳を覗き込んで私の次の言葉を待っている。彼の手が触れる頬があたたかさを感じる。

「私もずっと雷蔵のことが好きだったから夢みたいで、嬉しくて」

そう言うと雷蔵は両腕でふわりと私を包み込んだ。「、」とただ雷蔵が私の名前を呼ぶ。それだけのことなのに。雷蔵、好き。好き。この気持ちが全部触れ合ってる部分から伝わればいいのにと思う。想いが溢れ出して苦しいくらいなのに、言葉にしようとするとするすると逃げていってしまう。

「雷蔵がすき」

それだけを言うと雷蔵はやわらかく微笑んで「良かった」とだけ言った。雷蔵の腕に先程よりも力が込められて、私と彼との距離がなくなる。私の肺の中が雷蔵の匂いでいっぱいになる。

私は、この現実をどう表現したら良いのだろう。