い組の教室の扉の陰からひょこりと顔だけ出して、中を窺う。探していた人物頭を見つけて私はホッとする。
「かんえもーん」
「あ、。どうしたの、兵助に用事?」
「何でそこで久々知くんが出てくるのよ。私が用があるのは勘右衛門だって」
ふっと教室内を見ると窓際の席で久々知くんが何か書物を読んでいた。多分教科書かなんかだ。真剣な表情でそれを読んでいる。時折ぱらりと頁を捲る手が動く。勘右衛門が「本当なんだ」と小さく呟く声が聞こえた。
「あ、そっか。ごめん…」
「それよりなんでこの間勘右衛門だけお見舞いにきてくれなかったの?」
「その日は学園長のお使いに行ってて。帰ってきたときはもうは長屋に帰った後だったんだよ」
その後にでも一度もお見舞いに来なかった勘右衛門は薄情だ、と頬を膨らませてみせる。
「ごめんごめん。さすがに長屋に忍び込むわけにはいかなくてさ」
「なんでよ。勘右衛門なら楽に忍び込めるでしょう。私暇だったんだから来てくれれば良かったのに」
私がふて腐れたように言うと勘右衛門は困ったように「そういう訳にはいかないよ」と笑った。そういえばいつからか勘右衛門は私の部屋に遊びに来なくなった。勘右衛門だけじゃない。ハチも雷蔵も三郎も、だ。それはいつからだっけ。何かはっきりとしたきっかけがあって、そうなったような気がするのに原因が何だったか思い出せない。おそらく過激派のくのたまか、シナ先生にでも見つかってこっぴどくやられたりしたのだろう。多分そんなところだ。
「まぁいいや。ご飯食べに行こう」
「あ、待って。兵助まだ来てないだろ」
そう言われて私はキョトンとする。ああ、そっか。久々知くんはい組なんだ。勘右衛門と仲が良いんだから、ご飯だって一緒に食べるに決まっているのだ。でも当然のように言われて私は少し寂しい気持ちになる。皆知らないところで久々知くんと仲良くなっちゃって。もっと早く私にも紹介してくれれば良かったのに。
「兵助ー、食堂行こう」
と勘右衛門が呼びかけると席で教科書を読んでいた久々知くんが顔を上げて、教科書を閉じて懐に仕舞って立ち上がる。「久々知くん、どーも」と近づいてきた久々知くんに私は軽く挨拶する。すると彼も軽く手を挙げて挨拶を返してくれた。正直私はこの久々知くんとの距離を測りかねている。実際昨日会ったばかりで感覚としてはまだ友達の友達と言ったところだ。呼び方も昨日名前を呼び捨てにしてくれと言われたけれど、昨日連呼してしまったせいで何となく気恥ずかしくて呼べなかった。
主に勘右衛門と他愛のない話をしながら食堂に着く。久々知くんは勘右衛門の隣に座るのかと思ったら意外にも私の隣に座ってきた。勘右衛門は私の正面だから、少し不自然な並びになる。
「あ、そうだ。久々知くん、昨日はありがとう」
本当は一番最初に言うべきことを思い出して今さらながらお礼を言う。見ると久々知くんは隣で豆腐を突いていた。「ああ、」とその口から声が漏れる。
「が無事ならそれでいいよ」
と言った。それでいいと言っている割には彼の顔はどこかつらそうで、ちぐはぐだった。
*
それから、よく久々知くんを見かけるようになった。ついこの間まで知らない人だったのに。それとも知り合いになったからだろうか。今までは視界の中に久々知くんが入ることはあっても、認識していなかっただけなのだろうか。私が久々知くんだ、と気が付くと彼は必ずこちらを見る。目が合って、視線だけで挨拶を交わすだけのときもあるし、私がひとりのときは声を掛けてくる。
「今、暇?」
「暇だけど」
「じゃあ少し話そう」
そう言って彼は横たわる木に腰を掛ける。私もそれに倣った。久々知くんと一緒にいるのは嫌ではなかったが、話そうと言われても私には彼と話す内容を何も持っていなかった。こういうとき何を話せばいいんだろう。話そう、と言ったのに久々知くんも特に話題を持っているわけではなさそうだった。私は必死で話題を探す。このまま沈黙が続けば彼が立ち去ってしまうような気がしたのだ。「そういえば、」と私は口を開いていた。何を話すか直前まで考えていなかったくせに、口を開いてみるとするすると言葉が出てきた。
「そういえば思い出したんだけど、久々知くんと私、昔会ってるよね」
そう唐突に切り出すとビクリと久々知くんの体が震えた。何だろう、と不思議に思いながらも私は思いついたままを話す。話しながらも記憶が蘇ってくる。
「いつだったか忘れたけど、私が食堂でこけてご飯全部ひっくり返しちゃって泣いてたら『俺の分けてやるよ』って豆腐くれたんだよね」
なんで豆腐か分かんないけど。ただの冷奴を分けてもらって私は随分嬉しかった記憶がある。なんでだろう。あのとき私が小さかったからだろうか。親切が身に染みたということなのだろうか。
「それで?」
「それだけだけど…」
本当にそれだけだった。長い学園生活の中で一度も関わりがないなんてことはなかったんだと、ただその報告だった。でも、そのことを久々知くんはずっと覚えていたのかもしれない。頭良さそうだし、忘れていたのは私だけだったかもしれない。
「そうだな、そんなこともあったな」
「久々知くんはあのころから優しかったね」
なんだろう、まだ胸がざわざわする。まだ何か忘れているような。欠落感。喪失感。これは一体何だろうと思っていると横に置いていた手を不意に掴まれた。掴まれたというより、その場にあった私の手に久々知くんの手が重ねられただけと表現しても良かった。
「久々知、くん」
握られた手が、焦げるように熱い。口がカラカラに渇いて、彼の名前を呼ぶので精一杯だった。遠くでゴーンと鐘の音がした。
「時間だ」
と久々知くんが短く言って、何もなかったかのようにパッと手を離して立ち上がる。「あ、」と私は無意識のうちに名残惜しそうな声を漏らす。呼び止めて何を話そうと考えていたわけではないのに、とっさに名前を呼びそうになっていた。『久々知くん』の『く』の字に口を開けたところで「あー!!」と背中から私を呼ぶ女の子の声が聞こえた。
「もう、こんなとこにいた。早くしないと授業に遅れるよ」
頬を膨らませてこちらに駆けてくるのは同じ組の友人だった。きっと姿の見えない私を探しに来てくれたのだろう。彼女は「まったく何やってたのー?」と聞いてきたが私の向こうに青紫の忍装束を見つけたのだろう。何かを悟ったかのように「あ、」と小さく声を上げた。
「あ、ごめん。久々知と喋ってた?」
「ううん。今教室行こうとしてたとこ」
久々知くんの去った方向を見たが黒髪と青紫の服はもうとっくに見えなかった。
「ねぇ、久々知兵助ってどんな人?」
「はぁ?それを私に聞くの?あんたの方がよく知ってるでしょう」
「知らないよ、全然知らない」
あんな瞳は知らない。全然知らないのに、皆私は久々知くんのことを知っているはずだと言う。私が知っている久々知くんなんてほんの一部でしかないのに。
「えーっと、まず顔が良くてモテるでしょう。成績も優秀で真面目だし。愛想はそんなに良い方じゃないけど、まぁ優しいよね。親切っていうか。あと豆腐が大好き」
半分は知っていて、半分は知らないことだった。ほら、私は久々知くんの半分も知らない。彼と親しくないと言う友人だってこれだけのことを知っているのに、私はその半分以下だ。それは何も知らないということと同義ではないかと思った。
「そんでもって、をとても大事にしてる」
そして彼女は当然のことのようにそれを続けた。
「なに…、それ」
「本当のことだよ。見てて分かるもん」
私は久々知くんに大事にされるようなことをした覚えも、特別大事にされた覚えもなかった。確かに久々知くんはいつも私に対してやさしかったけれど、それは一般的なものであったはずだ。そうでなくてはならない。
そろそろ行かないと本当に授業に遅刻するよ、と友人が歩き出したのをきっかけに私は思考を中断して、歩くことに集中する。これ以上考え込んだらおかしくなってしまいそうだ、と思った。もう、考えたくない、と。私は久々知くんのことを
何も知らない。>>