あの日私はまぬけなことに落とし穴に嵌っていた。
そのときの私はひとりで森を散歩していた。競合区域である森をひとりでボーっと歩いていたのだから、これはもうまぬけとしか言いようがない。いや、それで落とし穴の目印に気付かず、そのまま穴に落ちたのだからまぬけ以上である。しかも落ちたときに足首を捻ったらしく右足がズキンズキンと鈍い痛みを訴えていた。足袋を脱いで確認するのが怖かったのであえて、見ないようにしたが、きっと腫れているんだろうということは予想が付いた。見なくったって、この足じゃあ歩けないことは分かってる。穴はそれなりに深く掘ってあり、私の腕の力だけでは登ることは出来ない。誰かに助けてもらおうにもここは人のあまり通らない森であり、今日私は友人にどこへ行くかも告げていなかった。つまり、早期救出も望めない状況ということだ。夜になって友人が私がいないことに気が付いて、先生に相談して、先生達が私捜索隊を結成して、探し回って、それでやっと見つかるというところだ。一体それはいつになるのだろう。
「お腹、空いたな…」
もう既に何時間も穴の中でうずくまっていたから泣きたくなってきていた。段々日も暮れてくる。それはつまり友人が私の不在に気付く時間が近づいているということでもあるのだけれど、素直に喜べるわけがなかった。
「あれ、誰か落ちてる?」
不意に狭い空から声が降ってきたのはその時だった。驚いてバッと勢いよく顔を上げると、ひょいっと天井に顔を出したのは私でも知っている五年の有名な先輩だった。
「大丈夫?」
すぅっと手が伸びてくる。私がそれを掴むといとも簡単に引き上げられた。私は数時間ぶりに広い空の下に出て、数時間ぶりに地面の上に立つ。否、立とうとしたがズキンと右足が痛んでバランスが崩れる。そのまま地面に倒れこむかと覚悟したが、右腕を強く掴まれた。
「うわ!あっぶな…」
すっぽりと先輩の腕の中に納まっていた。「大丈夫?」と彼は本日二度目のその言葉を発した。その声は聞いたことのないほど優しいもので私は驚きで跳ねる心臓を必死で沈めなければならなかった。
「あああ、あの、ふわ、せんぱい、」
「…なぁに?」
名前を呼ぶと彼はにっこりと笑顔を見せた。間違ってはいなかったようだ。事故でくっついた体はあっさりと離される。「足、怪我してたんだね。ちょっと見せてもらってもいい?」と彼は言い、私を地面に座らせた。
「痛い?」
とまるで壊れやすいものを扱うかのように優しい手付きで私の足を診て聞いてくる。なるべく痛みを与えないようにとそっとそっと足袋を脱がし、踵を手に乗せて、反対の手で触れるか触れないかぐらいの優しさで指先が触れる。
「…っ!」
私の触れられた足首はズキンズキンと痛みを訴えていたけれども、それ以外にも捻挫のものとは違う熱が宿ったような気がした。
「痛い、よね」
彼はふわりと撫でるようにもう一度足首に触れてから私の足を下ろした。今まで受けたことのないような扱いに私は戸惑いを覚える。忍術学園で授業を受けていれば多少の傷はいつものことで、私も当然捻挫ぐらいの怪我なら慣れっこになっていたから、それほど大事に考えていなかったのに。それなのに先輩は心の底から私を心配して気遣っているように思える。とても優しい人なのだと思った。
「とりあえず保健室に行こうか、ちゃん」
「…ななな、なんで、」
「ん?」
「私の名前を…。不破先輩とは話したことないのに」
「…それは三郎が、よくちょっかい出してるから」
「ちゃんだったよね。違った?」と聞いてくるので私はぶんぶんと大きく顔を横に振った。確かに私の名前はで間違いない。そうじゃなくて、
「先輩が私の名前を知っていたことに少し驚いただけです…」
確かに私は鉢屋三郎先輩とは面識があったけれど――いや、面識なんてものじゃない、その頃からすでに鉢屋先輩から理不尽な嫌がらせを受けていたけれども不破先輩とは直接会って話したことはそれまで一度もなかった。それなのに不破先輩が私の存在を認識しているどころか、名前まで覚えていたことが意外だったのだ。
「歩くのつらいと思うから、乗って?」
「いえ、このくらいどうってことないです。怪我には慣れてますし、」
「乗って」
「はい…」
背中を差し出した先輩に慌ててそれを固辞したが、有無を言わさぬ物言いに私は二度目にして素直に従った。そっと遠慮がちに先輩の首に腕を回すといとも簡単に私の体は宙に上がった。
そこから保健室に着くまでの間、先輩は一言も喋らなかった。私もあえて何も言わなかった。重くないかな、とか不安に思ったけれども、先輩はしっかりした足取りで、そして私を気遣いながら歩いているのが伝わってきたから、黙って背負われていた。
保健室に着くと先輩はその場にいた善法寺先輩に私の怪我について伝え、私に一言「これからは落とし穴に気をつけてね」と残しそのまま出ていってしまった。私は善法寺先輩に手当てをされながらずっと不破先輩について考えていた。
「痛い、よね」その声が何度も頭の中を駆け巡る。私を本気で心配している声だったと思う。やさしい声。やさしい人。あんな風に怪我を心配されたのは初めてだ。両親だって捻挫程度ではあれほど心配しないだろうに。初めて喋ったような人間を心配出来る人。他の人とは違うひと。
「手当て出来たよ。付き添ってくれた彼にはお礼を言わないとね」
「はい…」
多分、このときからだ。私が不破先輩に対して特別な感情を
抱くようになったのは。