その日蝉の前に現れた少年はいつもと様子が違った。まず、少年は走ってここまでやってきた。蝉の木の真下までくると立ち止まり、幹に片手を付いて乱れた呼吸を落ち着けた。そんな風に少年がやってくるのは初めてだった。

「話しちまった……」

少年の頬は心なしか赤く染まっており、蝉はそんなに日向は暑いのだろうかと疑問に思った。

「つか、もっとまともな受け答えがあるだろ俺」

そう言って少年はドンと木の幹を叩いた。それは大した衝撃ではなかったが、蝉はその少年の行為に驚いて幹から離れ落ちてしまいそうになった。

「……きっと、好きなんだろうなぁ」

少年がぽつりと呟いたその言葉は蝉の鳴く声と相まって夏の空気に消えた。蝉には少年が何を言っているのか分からなかったが、少年が考え込んでいることだけは分かった。

少年はいつものように目を閉じて、上を見上げる。しかし、その表情はいつもの弛緩したそれではなかった。その目に何を映しているのか蝉には分からない。蝉がその表情から何かを読み取る前に少年は右腕で陽射しを遮るかのように顔を覆ってしまった。

蝉のいる樹木に少年が背中を預けるのはいつもと同じだ。少年が目を閉じるのもいつもと同じ。だが、今日は何かが違った。

それでも蝉は少年を励ますことすら出来なかった。蝉は少年が勝手に話し始める話の断片を聞くことしか出来ず、話の先を促すことも、もっと詳しく話を聞きだす術も持たなかった。蝉はただいつもより大きめに鳴いて自分の存在を主張することしか出来なかった。

少年は寝てしまったかのように身じろぎひとつしなかった。そんな時間がしばらく続いた。蝉は本当に少年が本当に寝入ってしまったのかと思った。

そのとき遠くから新しい足音が聞こえてきた。

「おーい、八左ヱ門、こんなところにいたのか。晩飯食いに行くぞ」
「三郎、わりぃ。今行く」

そう言って少年は体を起こし、呼びに来た人物の方へ大きな声で返事をする。そして小さく「よいしょ」と言いながら少し気だるそうに立ち上がると、その方向へ駆けていった。少年の名前が八左ヱ門ということをここで蝉は初めて知った。少年が髪を揺らし遠ざかっていくのを蝉はその目に映していた。