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仕事があるから、って理由を付けて私はバジルの部屋をあとにすることにした。これ以上ここにいるのは気まずくて、ぐちゃぐちゃのこころがどうしようもなかったから。ずっと、ずるずると長い時間ここに居座ることはできた。きっと彼なら病人を追い出すことなんてできないから。私が「帰る」と言ったときもいい顔はしなかった。心配そうな、顔。彼はやさしすぎる。 玄関先で私はバジルを振り返った。たぶんこれが最後になるだろうな、って思いながら。うまく笑えてるかな? 「今日は本当にありがとう。迷惑掛けちゃって、ごめんね」 「いいえ、そんなこと」と彼は言った。そうして何か言いたそうに口を開けて、閉じた。私はその言葉を聞きたいとは思わなかった。たぶん、彼は「迷惑なんかじゃありません」とか「本当に大丈夫ですか?」とか「無茶はだめですよ」とかそういうことを言いたかったんだと思う。そんなの聞きたくなかった。あまりにも彼らしかったから。 昨日のこと全部夢だったみたいだって、思った。 「じゃあ、バイバイ」 いつものように、またね、って言おうとして、ああ「また」なんて私たちには存在しないんだってこと思い出して。さようなら、はあまりにも哀しすぎたので「バイバイ」。でも、それもあまり変わらなかった。結局、意味は同じ。別れの挨拶。そのまま、バジルが何か言う前に去ってしまいたかった。でも彼が最後に私の名を呼んで呼び止めるので振り返ってしまった。 「、」 彼が呼んだ私の名がまるで異国の言葉のように響いたので。ああ、あまいあまいその声はいつだって、私の心を振り向かせる唯一の方法だった。 「また、今度」 彼がにっこり笑って手を振るので。そのこどもっぽい、やわらかい仕草が私の心臓をぎゅって掴んで締め上げた。ねぇ、「今度」を考えていいの?次にあなたに会える日のこと想っていいの?待ってもいいのかなぁ。言葉が出てこなかったから代わりに私も手を振った。そのまま彼に背を向けて歩き出した。 バジル、だいすき 徐々に足を速めて、走って、走って。泣き出しそうになった。泣き出してもよかった。朝の4時で人通りもほとんどなかったから。でも泣かなかった。泣くのはまだはやい。まだ私はあなたのことすきだよ? 「またね、」 誰に言うでもなく、小さく呟いて。 足取りも軽く、私は朝焼けの町をゆく。 遅すぎた始まり
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