チャンスをください
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目の前にある扉を開けるのがこわい、だなんて、そんな風に思う日がくるだなんて。こわいこわいこわいこわい、変化がこわい。この年で変化を恐れてどうするんだと言われそうですが、本当にこわいのです。これ以上、変わりたくない。扉を開けたら何が起こるのでしょう。もしかしたら良いことが起こるかもしれない、もしかしたら悪いことが起こるかもしれない。もしかしたら、何も変わらないかもしれない。たぶん、変わらない。私は何も変わらないことを確かめに来ているだけだ。さぁ、扉を開けろ! 私は深く深く息をついて、覚悟を決めようとする。ズキズキズキズキ。まだ痛むのだ、この心臓は。痛くて痛くて仕方がなくてまた涙が出そうになる。思い出し泣き、なんてまったく意味のないことなのに、ね? 目の前の扉。それはとても普通のドアでした。何の変哲もない、重そうでも、厳重なセキュリティがなされているわけでもなく、何か罠が仕掛けられているわけでもない、いたって普通のドア。その扉を開けようとそっと手を動かしかけた時、ドアノブがガチャリという音とともに動き、私は驚いて飛び退る。ゆっくりと扉の向こう側から姿を現す彼。でもこれは偶然なんかじゃなくて(運命とかそういうのは全くなくて)、当たり前のことなのです。扉の向こうに彼がいることは。だってここは彼の部屋の前なのですから。そうして私は彼の姿を見た途端、自分が何しにここまで来たのか分からなくなった。全部ぶっとんでしまった。ここにくるまで何度も、喋ること、頭の中で繰り返し練習してきたはずなのに。 「殿…なぜここに」 彼は私の姿を目に留めて、驚いたように目を開き、掠れるような声で言いました。彼の声を聞いた時、私はまたここで泣き出してしまうんじゃないかと思った。あの日のことが、なかったことになればいいのに。だってそうすれば私、こんな風に、大好きな人に会う度に、こんな痛い思いをしなくてすんだ。かつて、彼に会うことは単純に私にとっての幸せだったのに、どうして今はこんな痛みを伴う幸せに変わってしまったのですか? 「あのね、食事に行こう!」 私笑えていますか?今の自分に出来るとびっきりの笑顔。無邪気を装って。心は締め付けられるようだけど、そんなの忘れてしまったかのように。痛くない痛くないいたくない。自分に一生懸命そう言い聞かせて明るい声で(つまり空元気です)言って彼の瞳を見つめる。なんてきれいな青だろう。なんてやさしい青だろう。すきだなぁ、と思った。改めて。 「私ね、今日お給料入ったばかりなの。だから」 「殿、」 「この間のレストラン、また行こうよ!すごくおいしかった」 「拙者、これから仕事が」 「じゃあ待ってます。終わるまで、待ってます」 正直言って、私今ものすごくうざい女です。一方的に約束を取り付けて、待ってますなんて。ずるい女です。そんなこと言われたら彼が来るしかないってことを知っていて私は言うのです。卑怯な女と罵ってもらって構いません。これで最後にしますから。諦めるから。時間かかるかもしれないけれど、これでお終いにします。好きと思わないようにします。だから、お願いです。 「待たれても困ります」 「でも待ちます。ほんの少しでもいいです。仕事終わってからでもいいですから来てください」 「無理です。そのあと約束があるので」 彼女と。彼があまりにも小さくぽとりと言葉を落とすので、私は危うくその言葉を聞き逃してしまうところだった。いっそ聞き逃してしまえばよかったのに。かのじょと。誰の?バジルの。かのじょってなに?こいびとっていみだよ。 「もう拙者に会いにくるのはやめていただけませんか」 「バジ、」 「迷惑なのですよ」 また私の心臓は不規則な動きをしているように思えた。だって、そうじゃなかったら、なんでこんなに。嫌嫌嫌嫌いやいや、聞きたくない。それ以上喋らないで。聞かせないで。どこかへ消えて。それなのに私は彼の名を呼ぶ。 「バジル、」 「いいですね、もうやめてください」 有無を言わせない言い方。眉間に皺を寄せた、心底迷惑そうな顔。彼にとって私の言い分などどうでもいいのだ。今ここではっきりと証明されたわけです。どうやらバジルは友達でいる権利すらも失ったようです。そうだよなぁ、一度振ったのにそれでも家にまで押しかけてくる女なんて、いやだよなぁ。それなのに私は、バジルが私を嫌うはずがないという根拠のない自信があったようです。愚かしいことに。もう、昔には戻れない。私たちが大人になる前は毎日顔を合わせていたときもあったのに(それは私がその幸せに気づく前のことでしたが)。あの時には戻れないのですね。分かってる。それなのにどうして、 「バジル」 私はまた彼の名を呼ぶのでしょう? 「殿、」彼も私の名を呼ぶ。でもそれは私の呼びかけに答えるものではありません。 「もう、行ってもいいですか?」 冷たい氷のようだ。神様は私にもうこの恋は諦めろと言っている。バジルにはあいするひとがいたのですね。私は知らなかったけれど。そして私はただの昔なじみ。ただの友達にすぎなかった。バジルはとっても素敵な人だ。私の他にも彼を思う女性は多かったはず。なんで私はそのことを思い当たらなかったのだろう。きっとバジルとその女性は愛し合っているのでしょう?(チクリ)幸せなことじゃないか(チクリ、チクリ) 「バジル。バジル、バジルバジルバジル」 狂ったように私はその名を呼ぶ。そうすれば真面目な彼が来てくれるとでも思っているのでしょうか?名を呼べば駆けつけてくれる、なんて魔法使いのようだ。ありえない。彼はとっくにこの場を去っていて、私の前にはただ扉があるだけだ。場所を知っているだけで決して踏み入れることのなかった部屋。バジルの言った“彼女”はもうこの部屋に入ったことがあるのだろうか?私はこの扉の向こうに、微かに残っているかもしれない彼女の気配を思い、嫉妬する。(なんてみにくい女だろう) 私はただ人の恋に横恋慕しているだけだ。分かってるのに、どうして、諦められないんだ。どうして、好きだと思ってしまうんだ。はっきりと拒絶されたというのに、どうしてまだこんなにも。 ようするにまだまだ私は子どもなんだ。ないものねだりをして、欲しいものが手に入るまで泣き喚く小さな子どものようだ。 「待って、ます…」 お願いです、きっと最後だから、 07.01.20 |