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どうしてあんなことをしてしまったのだろう、と思う。なんてことを言ってしまったのだろう、とか。もっと他の言い方はなかったのだろうか、とか。そもそもあの時の選択はあれで正しかったのだろうか、とか。後悔の波はとどまることを知らず、あれでよかったのだと自分を納得させようとしても、また押し寄せてくる。 「あれでよかったのです」 声に出して言ってみたけれど、ただ虚しさが残るだけだった。ちらちらと彼女の顔が頭をよぎるのです。思うのはいつも笑っている彼女だけれど、今殿の頬は涙で濡れているのでしょうね?そうさせたのは他でもない自分自身なのに。今すぐおぬしのところへと飛んでいって頬を伝う涙を拭ってやりたいと思う。抱きしめてむかしよく言ったように「泣きたいときは泣いてもいいのですよ」と。そうしないとおぬしは儚く崩れ去ってしまいそうだったから。いつも精一杯強がってるおんなのこ。弱い部分を持ってるのに、自分は強いと思い込んでるおんなのこ。きっとおぬしは普段自分が強がってることなど意識していないのでしょうね?もっとも、自分が弱いことを認めてしまえば残酷なまでに絶望で満ちたこの世界で生きていくことなどできませんが。 「あれでよかったのです」 自分の声だけが虚しく部屋に響く。その中で拙者は黒のスーツに着替えた。漆黒の闇に溶け込むような黒。いっそ溶けてしまえばいいと思う。自分は黒だ。でも殿には黒は似合わない、白がいい。 やさしすぎるのですよおぬしは。いつからでしょうねそんな殿に惚れてしまったのは。あたたかくて、笑うと世界が少しだけやさしくなるような。かつてはそんな彼女を隣で守ってゆけたらと思った。だって、彼女がこの世からいなくなってしまったら世界が滅びるんじゃないかと思ってた。実際、拙者の世界は滅びるのです。それに気づいてしまったときから拙者はおぬしがいなければ生きてゆけなくなりました。たいせつなたいせつなおんなのこ。目の離せない子。彼女の心にこっちを向いてほしくてしかたなかった。その目に拙者だけを映してほしいと何度願ったことか。「バジル、あなたが好きです」と言われた時の拙者の喜びを想像できますか?絶望にまみれたこの世界が一瞬だけキラキラと輝きを取り戻した。彼女の瞳に映っているのは拙者だけで、拙者の瞳に映るのももちろん殿だけ。いったいそれ以外に何が必要だというのです? その刹那的な幸せを手に入れるまで長い年月がかかりましたが崩すのは一瞬です。心を凍らせて一言、彼女を拒絶する言葉を囁くだけでいいのです。「拙者は殿のこと、好いてはいません」嘘。嘘だ嘘だこんなの全部嘘。「拙者は殿のことを愛せません」こんなにもあいしているのに。よくこんな嘘が言えたものだ。できることなら今すぐおぬしを抱きしめて、口付けて、二度と放さない。ぐちゃぐちゃにしてやりたいとも思った。そう思うくらい、その時の彼女はあいらしかったのです。その感情を殺すことは今までのどの任務より難しく思えた。 「、殿、」 鏡の中の自分の口が動いてそう発音した。そしてふと、あれは少し演技ぽすぎたかもしれないと思った。あまりにも拙者らしくない。(なにしろ拙者は今まで彼女を大切にしすぎたもので)彼女は拙者の嘘を見抜いたでしょうか。…ない、でしょうね、あの様子なら。思い出すあの時の彼女の顔。絶望。それとも見抜いてほしかったのでしょうか拙者は。なんて往生際が悪いのだと自嘲する。最低だ。そしてやはり自分は後悔しているのだと思い知らされる。 間が、悪かったのだ。こんなにも愛しいと思った人はいなかったのに、その人にあんな言葉で泣かせなければならないなんてよほど神は自分を嫌ってるらしい。まぁ、嫌われてもしかたのない生き方をしているのでそれはもっともですが。全て拙者が自分で選んでそうしたのですが。彼女に幸せになってほしいと願った。だから自分は身を引くべきだと。どうせ拙者がひとりで勝手に恋い慕っているだけなのだからと。諦める、望まない、幸せを願うと、決意したのもあの日のこと。これで最後にしようと思ってた。なにもその日に彼女の想いを知らなくてもよかったのに。嬉しくて彼女を抱きしめたい衝動に駆られたけれど、それはひどい裏切りのように感じられたのだ。彼女の幸せを望んだのも嘘のように感じられたのだ。だって自分といては彼女が幸せを手に入れることはできないとはっきり思ったのに。彼女の想いを受けること、つまりそれは彼女の幸せを望んでいないことになる。つまりそれは彼女の幸せを望んでいた年月が嘘になることになるのだ。そんなの拙者には堪えられない。 スッとネクタイを結んで鏡を見る。なんて情けない顔だろう。ああ、こんなにも彼女のことばかり想っていては意味がないではないか。こんなでは自分は死ぬかもしれないな、なんて思いながら扉を開ける。 06.11.05 |