目が覚めると、視界いっぱいに綺麗な顔が近付けられていた。
「大丈夫か? どこか痛むところは?」
そう言って彼が美しいかんばせをやわらかく崩す。焦りと、心配と、それと安堵が混ざったような顔。まるで全力疾走したあとかのように、ピンク色の髪が乱れて彼の額に張り付いている。彼は確かめるように私の頬に触れ、髪に触れる。遠慮のない触り方だったけれど、不思議と嫌悪感はなかった。ただ、寝起きの頭に疑問ばかりがパンパンに詰まっていく。
「えっと、失礼ですが……どなたですか?」
私がそう尋ねると、彼はピシリと表情を固まらせた。
◇
医師の説明によると、私は階段から落ちて気を失っていたらしい。階段から落ちる前のことや今日の日付などは何度も聞かれた。あとは一般常識的なことも。どうやら頭を打ったため、その検査のひとつらしい。一通り聞き終わったあと、先生はやさしく「まずは体の怪我を治すことに集中しなさい」と言った。あちこちぶつけてアザだらけ、少し動くだけで体が軋むので、私はその言葉に従って数日間ベッドの上で大人しく過ごしていた。
「入ってもいいか?」
「どうぞ……?」
ドア越しの聞き慣れない声に、お医者様だろうかと思いながら応える。開けられたドアから覗いたのはひどくうつくしい男性悪魔だった。
「あなたは、ええっと……そう、アスモデウスさん!」
私が名前を思い出して呼ぶと、彼は一瞬顔を歪める。名前を忘れてしまっていたことで不快にさせてしまったのだろうか。彼は学年首席で有名人だけれど、これまで関わりがなかったのだから許してほしい。
アスモデウスさんは私が頭を打ったときちょうど居合わせたと聞いた。偶然通りかかっただけなのに、私を医務室まで運んで、さらには私が目覚めるまでずっと付き添ってくれていたらしい。
「あれ、イルマさんとクララさんまで。お見舞いに来てくれたの?」
問題児クラスのふたりが彼の後ろからひょこりと顔を出す。イルマさんは心配そうな顔で、クララさんはいつも通りの笑顔で。
「コレ、お土産だよ!」
「わぁ、ありがとうございます! 嬉しい」
ふたりとはクラスメイトでもなければ、師団が一緒なわけでもない。廊下で会えば立ち止まって挨拶をする、その程度の関係だったのに、こうしてお見舞いに来てくれたことが嬉しかった。
「その……あまり調子が良くないって聞いたけど、あれからどう?」
イルマさんがそう遠慮がちに尋ねる。
「誰からそんなことを聞いたんですか? この通り、ピンピンしてますよ」
両手を動かしてみせるとイルマさんはホッとした表情を見せ、クララさんはニコッと花が咲くような笑顔を見せた。その後ろでアスモデウスさんは少し居心地悪そうに立っていた。
「先日はありがとうございました」
「……詫びるのはこちらの方だろう」
「いえ、アスモデウスさんのせいではありませんから」
彼に感謝こそすれ、謝られるようなことは何一つない。偶然助けただけのひとを心配してくれて、見舞いにまで来てくれた。普通はそこまでしないだろう。完璧に助けきれなかったことを悔やんでくれているのだろうか。
「やさしいんですね」
思ったままにそう口にすると、彼は顔を歪ませた。
言葉を間違えてしまったのだろうか。彼が時折こうした表情を見せるから、私は彼との距離をはかりかねている。わざわざ来る必要のない相手のお見舞いに来てくれるということは嫌われてはいないのだと思うのだが。
「あの、ちょっと散歩に付き合ってくれませんか?」
唐突な申し出に、彼が今度はぽかんと驚いたような表情を見せる。自分でも突然すぎる提案だと思う。でも、場所を移したらもっと彼のことが分かるかもしれないと思ったのだ。
よいしょと上半身を起こし、ベッドから降りようとすると、すっと横から手が差し伸べられた。驚いて見上げると、アスモデウスさんが何でもない顔をしてこちらを見下ろしていた。彼にとっては女性をエスコートするのは当然のことなのだろう。
「立てるか?」
「ええ、大丈夫」
「外ー!」とクララさんが病室を飛び出していく。それをイルマさんが追いかけていって姿が見えなくなる。いつも通り楽しそうなふたりを見ていると、自分も一緒に追いかけたくなる。
「実はもう明日退院することになったんですよ」
隣を歩くアスモデウスさんを見上げ、にっこりと微笑みながら伝える。
「案外すぐに退院出来るんだな」
「お医者様は外傷は大したことないと言ってくださって。それならばすぐに普段の生活に戻った方が良い、と」
頭を打ったので念のため入院することになったが、元々は軽い打撲と擦り傷だ。その痕もかなり薄くなってきている。事故に遭ったときのことは記憶からすっぽり抜け落ちているが、それもよくあることらしい。痛みを感じた瞬間の記憶なんてないままなら戻らなくても良いと思っているので、特に困ったこともない。
中庭に出ると空はよく晴れていて、木漏れ日が心地良い。しばらくベッドの上にいたからこうして外で体を動かせるのが楽しい。
「アスモデウスさんには本当に感謝しています。ありがとうございました」
私が落ちたのは人通りの少ない階段だったそうで、彼が見つけてくれなかったら発見が遅くなって治療も長引いていただろう。何度お礼を言ってもたりないくらいだ。
「私は何もしていない」
そう言って彼は謙遜する。
彼は何か言いたそうに口を開け、それからまた閉じた。もしかして今日来てくれたのも何か話したいことがあったからなのだろうか。けれども彼はそのまま黙り込んでしまった。
「アスモデウスさん?」
「……好きに呼んでいい」
私が呼びかけると、彼は小さくそう言った。確かに彼とは同級生で、この入院中それなりに仲良くなったのだから、いつまでも『アスモデウスさん』では他人行儀だったかもしれない。長いし、少し呼びづらかったから、彼の方から提案してくれて助かった。
「じゃあ、ア――」
――その先にどんな音を繋げようとしていたのか。口が勝手に動きそうになった。
「……アズくん」
考えた末に思わずくん付けで呼んでしまったのは、もっと彼と親しくなりたいという願望の現れだったのか。イルマさんたちがそう呼んでいたから私も、と思ってしまったのかもしれない。
彼の希望通り呼んだというのに、一瞬彼は何故だかひどく苦しそうな表情をするものだから、私はまた選択を間違えてしまった心地がした。彼の方から好きに呼べと言ってきたのに。――アズくんは気難しい。気難しいけれども、案外感情が顔に出るタイプで、もっともっと彼のことを知りたいと思ってしまった。
「アズくんが困っていたら、今度は私が助けるわ」
優秀な彼が困っているときに私なんかで役に立てるかどうか分からないけれど。しかし味方がいるという事実だけで役に立つこともあるだろう。数は力だ。
「また明日、学校で」
そう言うと彼は驚いた表情を見せた。クラスは違うが、食堂や廊下など会う機会はいくらかあるだろう。何だか少しだけ学校に行くのが楽しみになった。
◆
「おはよう」
また明日と言ったのは私の方だったが、廊下で彼の方から声を掛けてきたものだから驚いた。思わずスプーンからスープがぽたりと落ちた。
周りもあのアスモデウスがなぜこの女子生徒に声を掛けたのだと好奇心の詰まった目でこちらを見ている気がする。
「こんにちは」
挨拶を返すと、彼はランチタイムに『おはよう』はそぐわない挨拶だったと思ったのか、微かに頬を赤らめた。
「えっと、ちょっと移動しません?」
周りからの視線に耐え切れずに提案する。一緒に昼食を取っていた友人へ目配せすると、「いってらっしゃい」と良い笑顔で言われた。これは後の追求が激しくなりそうだ。
手早く自分のパンをナプキンに包んでいると、友人が手付かずのものを分けてくれたので、ありがたく一緒に包む。
「お待たせしました。行きましょう」
何故だか呆気に取られた様子のアズくんの袖を引っ張って移動させる。好奇の視線は何だかじりじりと包囲網を縮めているような気もする。このままではさらに包囲網が縮まってどこへも行けなくなる。
「走って……!」
彼の腕を掴んで走り出す。虚を突かれたのか、誰も追いかけて来なかった。それでも全速力で廊下を走る。膝まである制服のスカートがこんなに走りにくいとは知らなかった。思えば制服でこんなふうに全力疾走したことはなかった。
眼前に広がる空がやけに青く見えた。
「ここまで、くれば、大丈夫、だと、思う」
ひとの少ない校舎の影。乱れた息を整えながら言う。後ろを振り返っても、人影は見当たらない。安心して深く息を吐く。アズくんの方を見上げると、彼は呼吸ひとつ乱していなかった。さすがだ。
「走れたのか」
彼が大真面目な顔で言う。真剣な顔をしているので、勝手に連れ出したことを怒られたり、これくらいで息を切らして情けないと呆れられたりするのかと思っていたのに。
「ふっ……あはは、アズくんって面白い!」
笑いが堪えきれなかった。
「もちろん走れるわ」
確かに最近こんなふうに走ったりすることはなかったかもしれない。妙に清々しい気分だった。吸い込む空気さえいつもよりおいしく感じる。
「……そういう表情もするのだな」
「もしかしてベッドの上にいたせいで病弱なイメージがついてる? 全然そんなことないのよ?」
彼との出会いは病室だったが、それまでの私は大きな怪我も病気もしたことのない健康優良児だった。家人にはおてんば娘と言われていたこともある。最近は淑女であろうと努力しているが、隠しきれていないとも言われる。
もしかしてアズくんは何か勘違いして、罪悪感を感じているのではないか。
「ずっと言おうと思っていたのだけど――もう、いいのよ?」
私が怪我をしたときにたまたま居合わせただけのひと。アズくんに感謝されこそすれ、恨まれる筋合いなんて全くないし、もちろん私が恨んでいるわけもない。
「アズくんはやさしいからずっと気にかけてくれているけれど、この怪我にアズくんは関係ないのだし――」
「関係はある!」
それを伝えるとアズくんは一瞬で必死な顔になり、私の肩を掴んだ。彼らしくない態度に、思わず呆けてしまった。
「私たちは、その……そう、“オトモダチ”だ!」
「オトモダチ?」
「イルマ様が仰っていたのだ! オトモダチとは――」
初めて聞いた言葉だが、なるほど私たちの関係に当てはまらなくもないと思った。イルマさんたちの関係に比べれば私とアズくんの関わりは随分薄いが、今後より親しくなりたいという願望も含まれているのだろう。
「だから――」
「だから、心配してくれたのね?」
「そうだ」
そう答えてから、彼は驚いたような表情をした。彼の気持ちを私が代弁したのが意外だったのだろうか。
「ふふ、じゃあ私たちは“オトモダチ”、ね」
「ああ」
彼の望み通りオトモダチになったというのに、彼はひどく泣き出しそうな顔で笑った。
――彼はよくそんな表情をする。なぜそんな顔をするのか。何がそうさせるのか。目の前にいるのだから自分が原因のように思えるけれども、彼の遠い目は眼前の私を映していないようにも思えて踏み込めなかった。
どうにか、こちらを見てほしい。――そんな過ぎた願いが頭をもたげる。どうやら頭を打って、随分と欲深くなってしまったらしい。
◆
放課後少し話せないかと誘われた。何か話があるなら今聞くと答えたが、そういうわけではないらしい。これはきっとオトモダチとしての付き合い方なのだろうと首を縦に振った。
迎えに来てくれると言うので、空き教室の窓際の席に座って待っていた。問題児クラスのホームルームはどうやら長引いているらしい。陽の差す窓際は暖かく、窓の外を眺めているうちに眠くなってきてしまった。
夢の中の私は、アズくんと貴族会でワルツを踊っていた。私は彼のパートナーであることに喜びを感じているのと同時に引け目を感じているようだった。それを斜め上から見ている自分は不思議に思う。どうしてこの幸運をもっと活用しないのか、と。もし私だったら――もし、わたしだったら?
何だか良い夢を見ている最中に、頬に手のひらが触れ、目が覚める。
「すまない、起こしたか?」
彼が私の顔に掛かった髪を指先で払う。その指の背がかすかに頬に触れたくすぐったさに「ん……」と声を漏らすと、彼の手がぴたりと止まる。
肘をついて二の腕に頭を乗せた姿勢でこちらを覗き込んでいた。同じ目線になった彼との距離が近い。
「ごめんなさい。少しうとうとしてしまって」
あまりにも差し込む夕日がやさしく暖かかったからだろう。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
「構わない。疲れていたのだろう」
「そうやってあなたはいつも私を甘やかして――」
ふつりと言葉が途切れる。自分は何を言おうとしていたのか。“いつも”とはいつのことか。先ほどまでそこにあった言葉が、霧のように消えてしまった。今までこんなことはなかったのに。
「……どうした?」
「ちょっと寝ぼけていたみたい」
もう大丈夫と微笑んでみせると、彼は少し疑うような表情を見せたあと、ふぅと息を吐いた。
「飲み物を買ってくる」
「待って、飲み物なら私が――」
「いいから。ここで待っていてくれ」
そう言って彼は購買へ向かっていく。私はその背中を眺めながら足をプラプラさせた。子どもっぽい仕草だが、何故だかそうしたい気分だった。
そう待たないうちにアズくんが帰ってくる。
「ほら」
「ありがとう」
アズくんが差し出してくれたカップにはやさしいベージュ色が満ちている。それは手のひらの中でたぷりと揺れた。
「あら、私ミルクティーが好きなの、言ったかしら?」
「……そうかと思って」
「嬉しい。アズくんはエスパーみたいね」
私のこと、何でも知ってる。そう言って笑うと彼はまた苦虫を噛み潰したような表情をした。
また、だ。
たまに彼は私の前でこういう表情をする。彼自身はそれを隠そうとしているみたいだけれど、その一瞬を見逃さない程度には私たちは親しくなっていた。
その表情を見るたびにえも言われぬ焦燥感に駆られる。
「ねえ、アズくんは何が好きなの? 教えて」
たっぷりのミルクとお砂糖ふたつ。子どもの頃はこうやって紅茶を飲むのが好きだった。甘ったるいそれが、何故か今でも好きだった。
「私も……ミルクティーはすきだ」
そう言って彼はまるで少年のような顔で微笑んだ。口元がかすかに弧を描き、目がやさしげに細められる。その表情に心臓がドクリと鳴る。
「もう少し時間はあるか?」
彼は視線をこちらへ向けると、ゆっくりと顔をほころばせた。そんなふうに言われて誘いを断るひとはいないと思った。
「もちろん」
自分の心が浮き足立っているのが分かる。こんなふうに誘ってもらえるのも、彼のオトモダチだからだ。
ひとまず場所を移動するため荷物をまとめていると、ふと窓の外に見知った女生徒の姿が見えた。向こうもこちらに気付いて手を振ってくれたのでこちらからも小さく振り返す。
「クラスメイト。入学当初から仲良くしてくれているの」
「知っている。今日は一緒じゃなくて良かったのか?」
「彼女に最近恋人が出来たから。たまには彼氏にも譲ってあげなくてはね」
授業中と休み時間はずっと私と一緒なのだ。下校時間くらいは彼氏といるべきだろう。
「彼女は、恋人がシャイだからもっと態度で示してほしいと言っていたわ。好きだと態度で分かると安心出来るし、嬉しい、と」
私はそういうものなのかと感心しながら彼女の話を聞いていた。好きだと全身で表現してほしい、と話す彼女の横顔は随分と大人っぽく思えたことを覚えている。
「……その気持ち、分からなくもない」
アズくんがぽつりと溢す。最初は聞き間違いかと思った。
「えっ?」
「何だ」
「ごめんなさい、ちょっと意外で」
彼がこういう恋の話に乗ってくるタイプには思えなかった。私の言葉に彼は少しムッとした表情をしてみせる。
「私にだって大切に思う相手くらいいる」
そう言って彼が遠くを見つめる。まるで恋しいひとを前にしているかのようなやさしい表情だった。今までこんな彼を見たことがない。その相手がイルマさんやクララちゃんではないことはすぐに分かった。彼の、秘密の大切な相手なのだと。
「……驚いた。こんな話私が聞いても良かったの? この話が広まれば悪魔学校中が騒ぎになるわよ」
「貴女が相手だから話した」
「それは、もちろん、言いふらしたりなんてしないけれど」
そこまで信頼してもらえていたことにも驚く。
「私のものだと、そう思っていたのに、手のひらから簡単にすり抜けてしまった」
彼は自身の手のひらを眺め、そう自嘲するように言う。意外だ、と思った。彼にも上手くいかないことがあるということも、そしてそれを私なんかに言うということも。失敗を簡単に他人に見せるひとには見えない。
「最近、“もしも”を考える。もしあのときああしていれば、とか」
「それは、後悔?」
「どうだろうな」
きっと、後悔ともまた少し違うのだろう。何だか少し分かるような気がした。その時々では最善の選択をしてきたはずなのに、振り返ってみればまるでボタンを掛け違えてしまったかのような。
「……私は少し、寂しいのかもしれないな」
ガツンと頭を殴られたかのような衝撃を受けた。彼は簡単に感情を吐露するタイプにも見えない。彼が私なんかにも吐き出さずにはいられないほどの寂しさとは、どれほどのものなのだろうか。それを埋められるのはこの世でただひとりだけなのだ。
何と答えて良いか分からずに、曖昧に微笑んでみせると、彼も困ったように笑った。――また、私は対応を間違えてしまったのかもしれない。でも私に何が言えただろう。
彼の言葉が小さな棘のように胸に刺さったまま抜けない。
◆
私はどうやら少しおかしくなってしまったらしい。
「あの、アズくんはいますか?」
約束もしていないのに教室まで押しかけて迷惑ではなかっただろうかと今さらながら後悔する。尋ねておきながらやっぱりいいですと取り消そうと口を開いた瞬間、クララさんがにまーっと笑った。なぜかそのまま教室の中に引き摺り込まれる。
「ほらほら座って座って!」
「アズくんが帰ってくるまで待ちましょう?」
「あの、イルマさん、クララさん」
どうやらアズくんは今おやつを買いに行っているところらしかった。
「こんなふうに押しかけて、やっぱり迷惑だろうから帰――」
「そんなことないですよ」
「……だって、アズくんってとてもモテるでしょう?」
余計なことを言ってしまったと気付いたときにはもう遅かった。私の言葉にふたりは顔を見合わせたあと、なぜか目を輝かせた。
「大丈夫! アズアズには好きな子がいるから!」
「そうだね、その子しか目に入らないと思う!」
アズくんといつも一緒にいるふたりが言うのだから確かなことなのだろう。憶測や噂などではないのだと思う。
「アズアズはずっとその子のこと大好きなんだよ!」
「そうそう! 傍目から見てもその子のこと大切にしているのが分かるっていうか」
「そう……アズくんには心に決めた人がいたのね」
あのときの彼は親愛とも取れる言い方をしていたけれど、きっとそれは控えめな言い方だったのだろう。
「ほら、アズアズ来たよー!」
クララさんの言葉に振り返ると、お菓子を抱えたアズくんが不思議そうな顔をして立っていた。ただ立っているだけのその姿でさえ、何だか眩しく見えた。
「珍しいな」
私の姿を見とめると彼はそう言って少しだけ目を丸くさせた。言いながらお菓子をクララさんに預け、私の隣に並んで歩き出す。
――何かが心に引っ掛かった。彼のこの言葉を知っているような気がした。
「ア……」
思わず言いかけた言葉は何かとても言い馴染みのあるものだったような気がしたのに、それを最後まで言い切る前に、言葉はどこかへ消えてしまった。
「特に用事はないのだけれど」
会いたくなって。顔が見たくなって。声が聞きたくなって。そのどれも伝えてしまったらきっとアズくんが困るだろうと思って何も言えなかった。
「そうか。実は私も後で話せればと思っていたところだった。明日、休日だが時間はあるか? ……もし良ければふたりで出掛けないか?」
咄嗟に特別なお誘いだ、と思った。アズくんはそんなつもりはないかもしれないが、休日に何でもない男女がふたりきりで出掛けたりしない。
「えっと、ごめんなさい……」
断られると思っていなかったのかアズくんが傷付いた顔をする。そんな表情をさせたいわけではなかったのに。
自分から彼に会いに教室まで来たりしておいて、矛盾した行動であることは分かっていた。
「私が、嫌いになったのか?」
「まさか!」
どうやったら嫌いになれるのか。
「ちょっと、今日は都合が悪くて。ただそれだけよ」
「では、明日はどうだ? 明日もダメだと言うなら明後日は?」
「えっと、その、ふたりきりはダメなの……イルマさんやクララさんも一緒なら、良いけど……」
「……分かった」
彼が承諾してくれたというのに、心の中ではがっかりしている自分がいた。もっと粘ってほしかったのか。私は彼に何と言ってほしかったのか。
「アズくんにはずっと好きな人がいると聞いたから」
余計なことを言わなければ良いのに、彼がすんなり引いたから言い訳がしたくなったのだ。“私”が嫌なのではない。“あなた”が嫌がるのではないか。
あれから、アズくんの大切なひととはどんな子だろうということばかり考えている。“ずっと”ということは私なんかより付き合いが長いのだろう。もしかしたら幼馴染かもしれない。かわいい子なのだろうか。それともアズくんと同じ美人系? ――もし私が幼いころ貴族会でアズくんに出会っていたら何か変わっただろうか。なんて。
「その、誤解されたらこまる、と思って」
その相手の女の子にも。それに私たちの間に変な噂が流れてしまっては申し訳なさすぎる。オトモダチだと説明しても理解してもらえないかもしれない。
「誤解などあるはずがない」
ありえないことだ。
その言葉にズキリと胸が痛んだ。冷静に考えれば、アズくんと私なんて釣り合うはずがないのだ。少し仲良くしていたくらいで、まさか本当に恋人だと誤解されるなんてありえない。
それに、彼はその好きな女の子にはとびきりやさしいのだと、イルマさんやクララさんは言っていた。見ていれば分かる、と。きっと私が知らなかっただけで有名な話なのかもしれない。
ちょっと考えればすぐに分かりそうなものだったのに。
恥ずかしくて消えてしまいたくなった。きっと今の私は羞恥で耳まで真っ赤なのだろう。
「そっか……」
「頼むから、これ以上勝手に離れていくな」
切羽詰まった彼の声。今にも泣き出しそうにも思えた。
そう言って彼が私の手を取る。この温もりを私は知っている、と思った。よく知っていたはずだった。
アズくんの大切なひと。親しかったのに離れてしまった相手。
他人のはずの私を何故か心配してくれるひと。何故か私の好きなものを知っていたり、やさしくしてくれるひと。
「忘れてくれるな」
一体何を忘れているというのか。分からない。分からないけれど、伝えなきゃと思った。
ぎゅっと彼の手を握り返すと、彼の肩がびくりと小さく震える。
認めなくてはならない。私はまた、どうしようもなくこのひとに惹かれている。
「わたし、あなたのことが好きなの」
口に出してしまえば簡単だった。
――カチリ、とピースが嵌る。
「アリス、さま」
もし彼が私の幼馴染でなかったら。もし彼が私の許嫁でなかったら。もし普通に出会っていたら、彼は私自身を見て好きになってくれただろうか?
そんなことを考えたから事故をきっかけに忘れてしまったのだろうか――
堰き止められていた記憶が、まるで流れる水のように押し寄せてくる。
「私、わたし……」
どうして忘れてしまっても良いだなんて思ったのだろう。彼は私にとって大切な人だったのに。一番いちばん大切な記憶だったのに。
「アリス様」
「ああ」
口に馴染む音で呼べば、彼は小さく返事をした。
「待っていた」
そう言って彼がやわらかい日差しの中で微笑む。
もしかして、もしかしたら。私はもっと自惚れても良いのかもしれない。
2024.12.27