▼星を流した少年の話

今日の練習はいつもより早めに終わった。昨日の午後が休みだったからいつもより長いかと覚悟していたが、監督の言葉は予想に反したものだった。理由は昨日の激しい夕立でフィールドのコンディションが悪いため。確かに多少ぬかるんでいたが、それくらいで監督が練習を切り上げるとは意外だった。詳しく聞くと選手のユニフォームが泥で汚れると洗濯をするマネージャーが大変だからだそうだ。

「ヒロトさーん、昨日は楽しかった?」

ドンと腰元に軽い衝撃があって、少しびっくりしながら振り返ってみると木暮がしがみついていた。

「何が?」
「またまたーとぼけちゃって」

そう言って木暮は悪戯っぽく笑う。木暮が何を言っているのかピンと来なくて首をかしげる。昨日木暮に何か言っただろうか?

「マネージャーと遊び出かけてたんでしょ?オレ見たよ!」
「それってデート?ヒロトくんも隅に置けないなぁ」

木暮が肘で脇を突きながら言う。横から吹雪も会話に加わってきた。マネージャーと出かけた。その言葉でようやく理解する。

とだよ。代表入り祝いに何か買ってくれるっていうから」
「随分と仲がいいよね」
「それは、と俺は家族同然だから」

そう言うと吹雪はにやにやとしながらも疑いの眼差しを向ける。吹雪くんは自分がモテるからかこういう話題が好きだなぁと苦笑しながら、俺は降参するかのように両手を上げる。

「それに緑川だって買ってもらってるよ。俺だけじゃない」
「オレはの弟みたいな存在だから」

緑川はそう言った。皆は緑川のその言葉に「なんだぁ」と少し落胆したような声を出して散っていった。俺もその流れに乗って汗を流してこようと思ったけれども、足に根が張ってしまったかのように動けないでいた。

俺だけじゃあ、ないのだ。はきっと俺がいなくたって緑川にお祝いを買ってあげていただろうし、俺以外の誰か例えば晴矢や風介が日本代表になったのなら彼らにも当然買っていただろう。今回はたまたま俺が一番最初に声をかけられたからにすぎない。思いついたときに俺がたまたま近くにいたとかそういう理由でしかない。緑川が近くにいれば緑川から声をかけていただろう。

緑川がの弟ならば、俺はの兄のような存在だろうか。そんなこと考えたことがなかったからどうもしっくりこない。もし例えるのならば双子、が一番しっくりくるだろうか。まるで生まれたときから一緒だったかのようにはずっと俺の側にいた。俺が宇宙人として生きていた時期もは側にいたのだ。選ばれなかった子どもたちは俺に嫉妬の眼差しを送ってきた。そうでない子どもは大抵何も知らなかった。けれどもはジェネシス計画のことを知っていて、それでも俺の側にずっといてくれた。

そのことを「どうして」など疑問に思うことなどなかった。

当時の俺はあれはあれで精一杯だったし、脇にちょこんと立っているの存在など気に留める余裕などなかった。いや、実際見えていなかった。の存在など忘れていたといっても過言ではなかった。

「―――さんは今やっと寝付いてくれて」
「そう、あとで何か軽い食べ物を―――」

廊下の向こうで音無さんと木野さんが喋っていたのが目に留まった。会話の断片も聞こえてきて、俺は無意識のうちにそちらへ聞き耳を立ててしまっていた。と聞こえたような気がする。が一体どうしたのだろう。そう思っていたらいつの間にか足がそちらへ向かっていた。

「―――あとでもう一度様子を見に行ってあげて」

そう言って木野さんが立ち去る。でも俺は足を止めることなく、その場に残っていた音無さんに近づいた。

が、どうかしたの?」
「あ、ヒロトさん…」

あんな風にからかわれたあとでこんなことを聞けばまた木暮や吹雪に何か言われるかなと思ったけれど、なにやら不安そうに話すマネージャー二人の表情が気になって、つい話しかけてしまった。

「えっと、それが、さんが午後になってから熱を出して倒れてしまって。今部屋で寝かせているんですけど」
が…?」
「安心してください。もうお薬も飲んで容態も安定しましたから」

が熱を出した。そう聞いて思い出すのは昨日のことで。昨日雨が降る中帰ってきた。あのあと合宿所に帰ってきてからはすぐに風呂に入るとは言っていたが、もしや昨日のことが原因ではないだろうか。というよりも、それ以外原因が考えられない。

「部屋にいるの?」
「ええ」

聞きたいことを聞き出してもうここに用はないと言わんばかりに立ち去ろうとすると肩を掴まれた。振り返るとかすかに笑顔の吹雪がいた。

「どこ行くの、ヒロトくん」
「どこってのところに決まってるけど?」
さんは寝てるんじゃないかな?行っても迷惑だと思うけど」
「でも、が熱を出してしまったのは俺のせいでもあるから」
「今はゆっくり休ませてあげた方がいいよ。それに僕が女の子だったら異性に寝顔を見せるのは嫌だけどな」
「いまさらだよ」

と俺はお日さま園でずっと一緒にいたのだから本当に今さらだ。の寝顔は何度だって見ている。そんなこと気にする仲じゃない。それくらいでは怒るようなやつじゃない。

「“お兄ちゃん”も過ぎると嫌われるよ?」

そう笑って言った吹雪に悪気はきっとないのだろう。それは理解出来たのだけれど、何故だかいらっとしてしまった。吹雪の言うことは正論で、いくら家族同然に育ったからと言ってあまり干渉しすぎるのはどうかと思う。家族同然だからと言って女の子の部屋に入っていくのもどうかと思う。

分かっていたけど、止められなかった。

「余計なお世話だよ」

そのときの俺にはうまく物が考えられなくて。吹雪に言われて意地になってしまった部分もあった。けれども、ただに会いたいとも思った。そして謝りたかった。昨日連れまわしてしまってごめんと。昼も言葉を交わしたのに気付いてあげれなくてごめん。色々言いたいことがあった。

嫌われることがこわかった。

『楽しいよ』昨日のの言葉が頭の中に反響した。『ヒロトといると楽しいよ』そんな風に言ってもらえることが嬉しかった。自分は何もないからっぽでつまらない人間だと思っていたから、お世辞でもそう言ってもらえたことがとても嬉しかったんだ。そう言って笑う彼女の隣で見た世界はまるで初めて色づいたかのように美しく思えた。

どうしてだろう。こんな風に思うことは初めてで、自分がこの次にどんな行動をとればよいのか全く分からない。誰かと同じに見られることも嫌で、には自分を特別だと思ってほしかった。

の部屋の前に立ち、ノックしようとしてやめた。もし寝ていたら起こしてしまう。代わりにドアを少しだけ開けて「」と小声で呼んでみた。反応がないのでもう少し扉を開けるとギギギと暗闇の部屋に響いた。

徐々に暗さに慣れていく目でそろそろと部屋の中を進んでいく。とは言っても合宿所の部屋の作りはどこも似たようなもので、俺の自室とほとんど変わらなかった。ベッドの前に立つと布団が人の形に盛り上がっていて、がそこに丸くなっていることが分かった。掛け布団の端から小さな手が出ていて、俺は無意識のうちにそれを握り締めていた。

「ひろと……?」

薄く瞳が開かれた。「…?」と自分でも驚くほど弱々しい声が出た。これじゃあどちらが病人だか分かりはしない。彼女は何度か瞬きをして、その瞳がはっきりと俺を捉えた。ただの風邪だと音無さんも言っていたのに、なぜだかがどこかへ言ってしまうような気がして怖かった。自分のせいで風邪を引かせてしまったこともあり、罪悪感からそんなことを考えてしまったのだと思うのだけれど。俺はが目覚めたことにひどく安心していた。

「ヒロト、練習は?」
「今日はもう終わり。昨日の雨でコンディションも悪かったからね」

そう言っての頭をなでると、彼女は気持ち良さそうに目を閉じた。熱のせいか息が荒くて、まだつらいのだと分かる。少しだけ起こしてしまったことを後悔した。やはり来るべきではなかったのかもしれない。このままを寝かせて部屋を出よう。そう思って立ち上がろうとするとの唇が薄く開いた。

「ヒロトがいてくれて嬉しかったよ」

は目を細めて、やわらかく笑って言う。こういうのをとろける笑顔というのだろうかとぼんやりと頭の片隅で思った。ここまで表情をくずすを初めて見た。いつだって彼女はにこにこと微笑んでいたのだけれど。あまりにも甘いその表情にドキリと心臓が跳ねる。嬉しかったよ、というその言葉が俺の中にじんわりと広がってあたたかくなった。

「本当に?」
「本当だよ。手、握っててくれてありがとう」

こんな風に言われたのは初めてだった。俺のこの小さな手でも何か、出来ることがあるのだと思った。父さんだって俺を必要としてくれたけれども、それは吉良ヒロトの代わりのヒロトであり、最強の戦士であるグランだった。

「今の僕は吉良ヒロトにはなれないし、グランでもないよ」
「私は、“基山ヒロト”がいいの」

「この手がいいの」そう言って彼女は俺の手を握って頬ずりした。触れた彼女の頬は熱くて、まだ彼女の熱が下がりきっていないことを教えた。空いている左手で彼女の汗で張り付いた前髪をはがして額に手を置く。やっぱり相当熱は高かった。熱のせいだろうか、はいつもよりよく喋り、いつもより甘えん坊になっているようだった。

「もう寝た方がいいよ」
「ヒロト、どっかいっちゃう?」
「いかないよ」

「よかったぁ」そう言って彼女は子どもみたいに表情をくずした。それがまるでちいさな子どものようで俺はくすりと笑みをこぼす。小さい頃、はよくそうやって笑った。俺の隣にちょこんと座ったり、俺の後ろとちょこちょことついてきたりしながら。あの頃は気がつかなかったけれど、あの時も俺が彼女にそうさせていたのだろうか。だとしたら嬉しい。

俺はいつだって誰かの代わりだった。父さんにとっては死んでしまった息子ヒロトの代わり。グランだってたまたま俺が一番強かっただけで俺の代わりはガゼルやバーンなどいくらでもいた。“俺”は俺でなくても良かったのだ。

「ヒロト」と彼女がまた小さく俺の名前を呼んだ。俺は答える代わりに彼女の手を握る力を少しだけ強めた。

誰かが、俺のこのちっぽけな手を必要としてくれている。誰の代わりでもないこの俺を。手を握られることがこんなに嬉しいなんて知らなかった。もう“誰か”になるのには疲れてしまった。

霧散してどこかへ行ってしまった俺はひとつに集約して、基山ヒロトになった。