▼ひとりの女の子の話


「緑川のお祝い買えてよかったね」

そう言ってヒロトは私の隣を歩きながら言った。夕暮れの商店街は赤く染められ、夕飯の買い物に来た人々や帰宅する人々で賑わっていた。

「でも、ヒロトのほしいものは買えなかった」

出かけるまでにもヒロトはほしいものを思いつけなかった。そこでリュウジくんの提案通り実際に店を回って考えることになったのだが、それでも見つけられなかった。リュウジくんと同じリストバンドもどうかと思ったが、ヒロトは既に持っていたから必要なかった。スポーツショップを回ったりしながらあれこれ考えてみたが、どれもヒロトが必要とするものではなかった。

「俺は今日と出掛けられるだけで十分楽しかったよ」

そう言ってヒロトは笑った。最近のヒロトはよく笑うようになった。それはきっと大好きなサッカーを思い切り出来るからだと思う。チームの皆はかつて敵であった私たちにも優しく親切だった。これほど恵まれた環境はないと思う。

「本当にほしいものはないの?」
「うん、今は思いつかないんだ。ごめんね」

そう言って彼は眉を下げた。ヒロトが謝ることは何もないのだから私はぶんぶんと頭を振った。こっちが勝手にお祝いをあげたいだけなのだから、ヒロトがそんな気に病むことなんて何もないのだ。急に言い出した自分も悪い。

ただ少しだけ淋しかった。もしもヒロトに何かあげられたら嬉しかったと思う。でもそれは私のわがままなのだ。

「ほしいものが思いつくまで、とっておいてもいいかな?」

ヒロトに気を遣わせてしまった。それでもヒロトがそう言ってくれたのが嬉しかった。いつかヒロトがほしいものをリクエストしてくれる日がくるといい。私があげられるものならば何だってあげるから。

「いいよ。ほしいものが出来たらいつでも遠慮せずに言ってね」

ヒロトは本当に物欲がない。玲名は私に欲がなく、そこがヒロトと似ていると言ったけれども私の偽物の無欲と違ってヒロトは本当に欲がないように思えた。ヒロトが物をねだっているところは見たことがない。その分ヒロトが私に何か望んでくれる日が楽しみだった。

「ヒロトがほしがるものって何―――」

やさしい表情で私の話を聞くヒロトの向こうにひとりの女の子が見えた。その子が目に留まった瞬間、喋っていた私の口は開いたまま固まってしまった。

いつだかヒロトを応援していた女の子だと一瞬にして分かった。距離があったし、人通りもあったから向こうがこちらに気付くことはなかった。ヒロトも私の方を向いて喋っていたから反対側を歩いている彼女に気付くことはなかった。それでもヒロトの鮮やかな髪の向こうにはっきりと私の目は彼女の横顔を映していた。彼女の長い髪が歩く度に揺れていた。

玲名の『ヒロトはモテるわよ』という言葉が頭の中をぐるぐると回る。そのことを妙に意識してしまっていけない。ヒロトは人当たりが良くて、やさしくて、顔も整っているからモテるのだ。それくらい私だって知っていた。ヒロトは人気者なことぐらい、私は知っているのだ。

私はヒロトに何もしてあげれなかったけど、隣にいたい。もしもまたヒロトが迷ってしまったときは私が助けたい。何が出来るというわけでないのにそう思う。

「どうかしたの?」

私が黙ってしまったのを不思議に思ったのだろう。ヒロトが私の顔を覗きこんできた。ヒロトに心配をかけるのは本意ではない。そんなことをしたかったわけではないから私は無理に笑顔を作って見せた。

「何でもないよ」

ヒロトは私の答えに満足していないのか、不満そうな顔をした。あの女の子の後ろ姿はもう見えないからばれることはないだろうけれども、嘘を吐いたことの罪悪感が私の心臓を打った。

玲名は私のことを無欲だと言ったけれども、そんなことは全然ない。ヒロトと出掛けられることはしあわせだと思うし、ずっとこうしていたいなと思う。この道が永遠に続いて、合宿所まで着かなければいいと思う。

「俺といるのは、楽しい?」
「楽しいよ。ヒロトといると楽しい」

ヒロトといるときが一番楽しい。その言葉は飲み込んだ。ヒロトは私が黙ってしまった理由を勘違いしたのだろう。それでもタイミングの良すぎた言葉は私の心を読んだのかと思ってドキリとした。

「そっか……」

それだけ呟いて俯いてしまったヒロトの表情ははっきりとは分からなかったけれども、安堵したような顔をしていたように思えた。そうだといいという私の願望が見せた幻かもしれない。けれど、隣から伝わる空気がやわらかいものだったからあながち勘違いではないかもしれなかった。私の言葉で少しでもヒロトが安らいでくれたなら嬉しい。

ずっと、ずっとヒロトの傍にいたいと思うのは私のわがままなのだろう。今のように近くにいることが出来るとは思わない。きっといつかあの女の子のようなヒロトを好く人間が現れて、私なんて必要なくなってしまうのだと思う。仕方のないことだ。もしも、ヒロトが今よりもしあわせになれるならそれがいい。

だけれども、いつ来ると知れないそのときを思うとぐるぐると私のお腹の底で得体の知れない何かが這いずるような感覚がするのだ。やっぱり私が無欲なんてのは嘘っぱちでしかなくて、本当の私はとても醜い。

ヒロトの隣で違う思いで俯いて歩く私の頭のてっぺんにポツリと何かが落ちてきた。手で触ってみると髪が濡れていた。

「あ、雨…」

そう呟いて上を見上げるとぽつぽつといくつかの雫が私の頬を濡らした。そうして立ち止まっているうちにアスファルトに小さな染みがいくつも広がっていって、あっという間に本格的に雨が降り始めてしまった。今日の予報では晴れだったから当然傘など持っていない。夕立だろうか。よりにもよってこんなときに夕立にあうなんてついていない。

どこかコンビニかどこかで傘を買うべきだろうか。確か合宿所まではまだ距離があったはずだ。そんなことを考えていると、急に右手を掴まれた。

「走ろう!」

そう言うとヒロトは私の手を取って走り出した。掴まれた手がまるで熱を持ったかのように熱くて。前を走るヒロトの髪が揺れる。私は懸命に両足を動かしたのだけれど、どんどんヒロトとの距離が開いていくようだった。実際は手首を引かれていたのだから、間は私とヒロトの腕の分しか開いていなかったはずなのだけれども。引かれた腕が痛かった。ヒロトの走るのが速くて「待って」と言葉にしたかったのだけれど、すべて短い息に変わってしまった。

景色が飛んでいく。ヒロトはうまく人混みの隙間を駆けていく。人々が「雨降ってきたよ」だとか「傘持ってない」と言う声が通り過ぎる。折り畳み傘を広げる人や傘を持っていないと小走りになる人たちが遠ざかっていった。

いつの間にか商店街の人混みを抜けて、ヒロトはシャッターの閉まった店の軒先で足を止めた。このまま合宿所まで走って帰るのだと思っていたから私は意外に思った。

「ここで少し雨宿りをしよう」

そう言ってヒロトは自身の体についた水滴を払った。それと同時に私の手首を掴んでいた指も離れてしまって。私はそれを惜しく思った。一方的に手首を掴まれていただけだから、離れていくその指を繋ぎとめる術を知らなかった。外気に触れた手首は急速に熱を失っていくようで、冷えた指先がじんじんと痛かった。

「皆心配するかな」

ヒロトはそんな私の心中を察することもなく、雨空を見上げてそう言った。どうだろう。リュウジくんは私たちが出かけることを知っているから心配してくれそうだけれども、他の人たちは私たちがふたりで出掛けたことを知らないのだから心配も何もないのではないかと思った。

「すぐに止むといいね」

心にもない言葉を返す。本当はずっと止まなければいいと思ってるくせに。そうすればこうしてヒロトとふたりきりでいられるって思ってるくせに。本当の私はとても強欲なのだと思う。一度何かを願うと次々と色んなものが欲しくなってしまう。出掛ける前は、ヒロトと一緒にいれるだけで嬉しいと思っていたのに。いざ帰る段になると、もっと長く一緒にいたいと思ってしまう。私が無欲なんて全部嘘だ。

その手に触れたくて、触れてほしくて。そんな風に思うのは初めてだった。こんな感情が自分の中にあるだなんて驚いた。ただ隣にいるだけで十分だと思っていたはずなのに。

「そうだね」

彼がそう返してきたのがなんだか淋しくて、少しだけ胸が痛んだ。彼は私の言葉に肯定を返してきただけだというのに。本当の私は欲張りで、次から次へと新しいものを欲してしまう。

こんな自分は嫌なのに。

そのときすっとヒロトの手が伸びてきて、とっさに体を強張らせるとためらいがちな指先が頬に触れた。突然のヒロトの行動に目を丸くしていると、ヒロトの手が私の頬を包み込んだ。

「ごめん、泣いているかと思って」

ヒロトはやさしいから。勘違いしてはダメだよ、。そう自分に言い聞かせるのに、彼の触った部分からじわりじわりと熱が広がっていくようで。蓋をしようと、こんな感情は蓋をしなくてはいけないと思ったのに、こぽこぽと湧き出てきて溢れてしまいそうになる。

いつかヒロトの特別になりたい、そう思った。

きっと叶わないそれは、願うだけ無駄に違いないのに。

「泣かないで」
「泣いていないよ」

ヒロトは私の涙を拭うように、私の目元を親指で擦った。本当に私は泣いていなくてヒロトが拭ったのは雨の水滴だったのだけれど、うまいぐあいに目じりを流れていった。

ヒロトの唯一になりたいという願いは星には届かないのだと思う。

だから、隣じゃなくて傍に居られればいいの。隣で、なんて言わないから今のまま幼馴染としてでいいからヒロトの傍にいさせてね。