▼とある少女の話

私、は思う。

私は体が弱く運動音痴であったから父さんの言うジェネシス計画の戦士に選ばれることはなかった。仲が良かった周りの皆は選ばれていたのに自分だけが父さんの役に立つことが出来なかったのはとても悲しかったし、もどかしかった。皆はどんどん変わっていってしまった。力を持たない私はただ見ていることしか出来ず、変わることの出来ない自分だけが残されていく。ただ無力感だけが私を支配していた。

父さんのジェネシス計画が失敗してからのヒロトはからっぽだった。ボーっと考える時間が多くなった。ご飯を食べるときもぽろぽろとご飯粒をこぼし、気がつくと箸が止まっていることもしばしばだった。ヒロトが何を考えているかは私がうんうん唸りながら考えても到底分かるものではなかった。

『サッカーが出来ることは嬉しいよ』

ヒロトはそう言ってどこか悲しそうな顔で笑った。サッカーが出来ること以外のことはきっと悲しいのだろう。昔は万能に思えたヒロトの手は私が考えていたよりもからっぽだったらしい。当然のことだがヒロトは宇宙人でも魔法使いでもなく、ただの人間だった。

そんなヒロトを変えてくれたのが円堂守という存在だった。円堂守がヒロトにもう一度サッカーを教えてくれた。サッカーをやってヒロトは変わった。いや、実際は本当のヒロトに戻っていっただけなのかもしれないけれど。ヒロトはちょっとずつ表情をやわらかくしていった。グランをやめたばかりのヒロトはいつもぽかんとした表情ばかりしていた。まるで小さな子どものような表情。それが円堂守のいうサッカーをやることでひとつずつ色を燈していく。困ったような表情を浮かべるようになり、不快感を表したり、微笑んだりするようになった。それは彼と同年代の人間と比べるとまだまだ薄く、感情に乏しいと言えたが確実に彼は人間に近付いていた。

壊れてしまった私たちを直すのに三ヶ月という期間は短すぎてあっという間に過ぎてしまった。その短い時間にヒロトは自分のかけらをひとつずつひとつずつ丁寧に拾い集めていた。

もっとも、グランになる前のヒロトだって今ほど感情豊かではなかった。お日さま園にいたころのヒロトもサッカーは好きだったけれどこれほど笑顔でやってはいなかったと思う。どこかやらなければならないという使命感を思わせるような顔つきをしていたように記憶している。サッカーをしていないときはひとり部屋の隅っこで絵を描いたり本を読んでいたりしているような子どもだった。

この頃から彼にとってサッカーは特別な意味を持つものだったのだと思う。ヒロトが何を思ってサッカーをやっていたのか私には悟れなかったし、ましてやヒロトがグランになったあとなど彼の考えなど推して図ることすらできなかった。幼少期を共にしたと言っても、私が知っているヒロトなどほんのごく一部でしかなかった。

ヒロトは宇宙人になって少しだけ遠くへ行ってしまった。そう感じたけれども、元々近くなんてなかったんだって、思い知るのはもっとあとのことだった。


そんなことを懐かしい絵本を読みながら考えていた。


掃除をしていたら出てきた一冊の本。昔ヒロトと一緒に読んでいたからだろうか、この本を見て真っ先にヒロトのことを思い出した。小さい頃は大好きでそれこそ毎日飽きるほど読んでいたのに、いつの間にか読まなくなって忘れてしまっていた。深い青の表紙とそこに光る星。ページを開けばやさしいタッチで描かれた絵とやわらかい言葉がふわふわと宇宙を漂うように、そこにあった。

「ただいま」

玄関の方から声が聞こえて、私は広げていた本を閉じた。目を閉じるとチカチカと星が瞬くのが見えるような気がした。

「おかえりなさい」そう言いながら本をテーブルの上に置いて立ち上がる。廊下へと顔を出すと、玄関でヒロトが靴を脱いでいた。

「あれ、ヒロトひとり?皆は?」

今日はサッカーをすると言って皆で出かけていったはずだった。それなのに玄関にいるのはヒロトひとりで、後ろから騒がしい声すら聞こえてこない。

「ちょっと、ね」

困った顔をしてヒロトは言った。皆どこかへ寄り道でもしているのだろうか。夕ご飯前に買い食いをしてはいけないのに、空腹に耐えかねてコンビニに引き寄せられてしまったのかもしれない。そう思ってなんとなしに視線を下に落とすとヒロトの軽く握られた右手が目に入った。その手に赤いものが見えてぎょっとした。

「ヒロト、手のひら怪我……」
「ああ、ちょっと擦りむいちゃって。薬局に行くよりも帰ってきた方が早そうだったから」

ひらひらと手のひらを振りながらヒロトは言う。実際その怪我はヒロトの言う通りただの擦り傷できちんと水で砂を流してあるようだったけれども、帰ってきたということはどうせ膝辺りも擦りむいているのだろう。長ズボンで見えないけれども、それなりに痛かったに違いない。

「どうして早く言わないの」
「大した怪我じゃないし。これくらい自分で出来るよ」

そう言ってヒロトはへらりと笑った。それはきっと私を心配させないようにと作ったものだろうが、私はそれを見て少しだけ悲しくなった。帰ってきてすぐに言ってくれれば良かったのに。ヒロトはあまり人を頼らない。弱みを見せないから仕方ないとは分かっていても悲しかった。少しでも寄りかかってくれても良いのにと思う。

違う。そうではなくて私自身がもっと頼れるような存在でないといけないのだ。もっとしっかりした人間だったらヒロトも私を頼ってくれただろうか。結局私は無力なのだ。

「でも、やっぱり今日はにお願いしてもいいかな」

顔を上げるとヒロトが私の目を覗き込んでいた。ヒロトのさらさらとした髪が揺れる。きれいな色をした瞳がとても近くにあって、吸い込まれそうと思ったと途端にそれがすぅっと細められた。

「足の怪我ならひとりでも出来るけど、手のひらだと片手で包帯を巻くのは難しいから」

気を遣わせてしまったのだと思う。きっと意識しないうちに私の表情が曇っていたのだろう。ヒロトはいちいちそれを拾い上げてくれる。私はそれを少しでも返してあげたいのになかなかうまくいかない。

「うん。じゃあこっち来て座ってて。今救急箱を取ってくるから」

私はサッカーをやらないし、ヒロトを変えるきっかけにもなれなかったし、きっとこれからもヒロトには何もしてあげれないだろう。精々が祈る程度なのだけれど、それでもヒロトがもっと変わっていけばいいと思う。ヒロトの手を引っ張るのは私の手ではないけれども、それでも私は傍らで頑張れ頑張れと声を掛ける人になりたいと思うのだ。それくらいはきっと出来ると思うから。

ドアの前でちらりと振り返るとヒロトもこちらを見ていた。目が合うとヒロトの唇がきれいな弧を描いた。

、ありがとう」

私はその言葉ひとつで心がぽかぽかと温かくなって、早くヒロトの手当てをして少しだけヒロトとお話ができたらいいなと思った。