携帯の着信音が聞こえて目が覚めた。

枕元に置いてある携帯を手にとって無意識のうちにボタンを押す。ほとんど目を開けないままに押したのだけれど運良く通話ボタンに触れたようだった。耳に当てて「もしもし」と声を出すと電話の向こうから「おはようございます」とやけにハキハキした声が聞こえてきた。その声がなぜだか心地良くてとりあえず「おはよう?」と言葉を返す。脳みそがふわふわしていて、瞼が重い。

「やっぱり寝ていたのですね」
「え?」

その言葉で私は覚醒した。この声はトキヤのものだということも一瞬で理解した。分かっていたけれど「トキヤ?」と確認してみると「そうですよ」と返ってくる。

サァっと血の気が抜けた。今日トキヤと出かける予定だったことを思い出したのだ。今日はトキヤと久しぶりのデートで、映画を見るために10時に駅前で待ち合わせしていたはずだ。そのトキヤが電話をかけてくるということは悪い予感しかしない。起きたばかりなのに背中に嫌な汗が流れる。時間を確認しようと思って、枕元にあるはずの目覚まし時計を探したが見つからない。

「え、今何時?」
「十一時ですよ」
「うそ!」
「嘘を言ってどうするんですか」

消えた目覚まし時計はベッドの下に落ちていた。寝相が悪くて落としたか、アラームが鳴ったときにうるさくてはたき落としたかのどちらかだろう。携帯を耳に押し付けたまま慌てて目覚まし時計を拾いあげると、針は十一時をちょっとすぎたところだった。よりにもよってこんなときに寝坊する自分を呪った。

「ごめん、今起きた…」
「今目覚めたのなら時間がかかりますね。とりあえず私は自分の部屋に戻るのであなたも支度が出来たら来てください」
「すぐ!すぐ行くね!」
「急がなくて大丈夫ですよ」

どんなに急いで支度したとしても今からでは一時間かかるだろう。すでにトキヤを一時間待たせている。私は電話を切ると、すぐにベッドから飛び降りた。


 ◇


「本当にごめん!」

トキヤの部屋に上がってすぐに私は土下座した。正直土下座したくらいで許されるとは思っていないが、こういうときは誠意を見せるのが大事だ。とにかく先手あるのみと思って謝った。しかし一度頭を下げてしまうと今度は上げるときがこわい。

「怒っていないから気にしなくていいですよ」

そう言ってトキヤは私の下げた頭を撫でる。怒ってないなんて絶対嘘に決まってると思っておそるおそる顔を上げる。怒ってないと言いつつ私が油断した隙にこの頭に置いた手に力を込めるつもりかもしれない。そう思ったのに目に飛び込んできたのはやさしい表情だった。

「なんて顔をしているんですか」

そう言ってトキヤはおかしそうに笑いを零した。ビクビクしていた私は相当変だったに違いないだろうけれど、それにしたってトキヤの声には怒気がない。

「本当に怒ってないの?」
「怒ってませんよ。それよりも早くこっちへ来てください」

トキヤは私の手を取って引き寄せる。そのままぎゅうと抱きしめてられてしまった。「」と名前を呼ぶ彼は本当に怒っていないようだった。顔を上げて確認すると、瞼にキスを落とされた。「ちょっと待ってちょっと待って」とトキヤの顔を手で押して引き離すと、今度はやっと不機嫌な表情をした。その顔を最初からしていれば良かったのに。

「トキヤちょっとそこに座って」
「何故ですか」
「いいから早く!」

ぴしゃりと言うとトキヤは私から離れて、私が指さした場所に正座した。素直に私の言葉に従うトキヤはまるで小さな子どものように見えた。なんだか立場が逆な気がするが、ここははっきり言わなければならない。

「あのね、トキヤは私に甘すぎる」

私がそう言うとトキヤは意味が分からないという顔をした。こっちの方がもっとよく分からない。

トキヤはいつも私に甘い。付き合い始める前まではこんなではなかったはずだ。もっと私に小言を言っていた。私が寝坊して授業に遅刻すると絶対に怒っていたのに、どうしてこんなに人が変わったようになってしまったのだろう。もっとも、以前だって私のために怒っていてくれたことは分かっていたのだけれど。何がこんなにも彼を変えてしまったのだろう。

「せっかくのデートなのに寝坊するとかもっと怒っていいんだよ」
「あなたが朝弱いのは今に始まったことではありませんし」
「そもそもトキヤは待ち合わせ場所で一時間も待ってるでしょ!」

一時間経ってから電話をしてくるなんて遅すぎる。何故もっと早くから電話を鳴らさなかったのだろう。私が寝坊しているに違いないと分かっていたくせに、その場で待ち続けるなんてバカじゃないかと思う。

「あなたは昨日も夜遅くまでレポートをやっていたのでしょう。ならば寝過ごしても致し方ありません」
「仕方なくない!トキヤも忙しい合間を縫ってデートの時間を作ってくれたのに」
「私はあなたと会えるだけで嬉しいですよ」

それは私だって同じだ。トキヤと一緒にいるだけで楽しい。でもそれとこれとは別だ。スケジュール調整をして私のために時間を空けてくれたというのに、その貴重な時間を午前いっぱい無駄にするなんてちょっとぐらいトキヤは怒るべきだ。

「あなたも疲れているのだからたまにはこうしてふたりでゆっくり過ごすのもいいでしょう」

そう言ってトキヤは私の肩を抱いて引き寄せた。なんだか言いくるめられているような気がしてならない。結局トキヤは私のことばかりを優先させているじゃないか。私なんかよりトキヤの方が疲れているに違いないのに。

が頬を膨らます理由はないでしょうに」
「トキヤが怒ってくれないから自分で自分に腹を立てることにしたの」
「ふくれっ面ばかりしているとそんな顔になってしまいますよ」

私を抱きしめたトキヤが耳元で笑う。普段はあまり喋らないくせに、私に対してはすごくやさしい声で言うからずるい。結局私は怒りを持続させることが出来なくて、おとなしくなってしまう。

「やっぱりトキヤは私に甘すぎる」
「そうですか。あなたも大概私に甘いと思いますがね」

「こうやっておとなしく抱きしめられているあたり」そう言ってトキヤは再び満足そうに私の髪を撫でた。

2011.08.10