授業中ノートから黒板に目を向けたときにふと翔くんの髪が目についた。先日の席替えで翔くんの後ろの席になってからこの景色は見慣れたはずなのに、今さら翔くんの髪が気になってしまった。何が違和感なのだろうと考えてしばらく、翔くんがいつも被っている帽子がないことが原因だと思い至った。そういえば彼は授業中に帽子は被らない。どこにあるのかと思えば机の横に掛けてある。通りで黒板が見やすいわけだと納得していると授業終了のチャイムが鳴った。

前の翔くんは「んー」と大きく伸びをした。私はノートを取るのを諦めてシャーペンを置いた。ノートを取るのをさぼって考えていたせいで、あと黒板の半分以上写さなければならない。休み時間は生徒が移動するから黒板が見にくい。そもそも目の前で翔くんが伸びをしているから全く見えない。

ノートを閉じると私は再び翔くんの頭に視線を戻した。翔くんはいつも帽子を被っている。食事するときも被ってるし、廊下で見かけるときも大体被っていたような気がする。被っていないときって授業中くらいなのだろうか。いや、さすがに自室では被っていないか。

「どうした?」

私の視線に気付いたのだろうか、気が付けば翔くんが振り返ってこちらを見ていた。首を傾げる彼の仕草に合わせて髪がひょこりと揺れる。

「いや、翔くんいつも帽子被ってるけど授業中は外すんだなと思って」
「そりゃさすがに礼儀だからな。それにこうやって黒板写す授業で被ってたら邪魔だし」

そう言って翔くんは掛けてあった帽子を手に取ってくるくる回した。確かに帽子を被っていたら下を向くときに落ちてしまいそうだ。それをいちいち片手で押さえるのも面倒くさいだろうと納得する。

それにしても帽子を被っている翔くんばかり見慣れているせいか、被っていない翔くんは少し新鮮だった。今までだって授業中は被っていなかったのだけれど、意識する前と後では違う。髪に少しだけ帽子のあとがついてる。

「いつもは帽子であんま見えないけどピンで止めてるのかわいいね」
「かわいい?」

そう言って翔くんは一瞬で眉根を寄せた。翔ちゃんにかわいいは厳禁だった。ただピンって女の子がよく使うものだからついかわいいって言ってしまっただけなのに、翔くんにはこれもダメらしい。

「えっと、つまり、その、お洒落だなって思って」

ちょっとごまかしたけれど、これは本当のことだ。翔くんは人よりもずっとお洒落に気を使っていると思う。センスもいいし、ファッション雑誌に載っていてもおかしくない。

「帽子とか、あと爪も塗ってるし!」
だってお洒落すればいいじゃん」
「えー、私は翔くんみたいには出来ないよ」

簡単に言ってくれるけれど、翔くんと同じくらいのレベルになるまでは相当の努力が必要だと思う。さすがにそこまでのレベルは自分に求めていない。けれどお洒落な翔くんを見ていると新しくかわいい髪留めのひとつくらいは買おうかなという気にはなる。

「爪はすぐに塗れないけどピンはほら」

そう言って翔くんは自分のピンを一本外すと私の後頭部に手を添えた。距離が急に近くなったことに驚いて私の体はびくりと固まった。翔くんの指が一瞬だけ私の頬をかすめた。その指がそのまま私の髪に触れる。私が固まったその間に翔くんは片手で器用に私の前髪をピンで止めてしまった。

「ほらみろ、かわいい」

翔くんは少し得意げな声色で、何の恥らいもなしに私の目をしっかりと見て言う。こういうとき身長があまり変わらないのはずるい。翔くんはなんの意識もしていないんだろうけれど、自然と顔が近くなる。しかも表情がちゃんと男の子だからさらに困る。ぶわわっと顔に熱が集まるのが自分でも分かってしまった。

「な、何照れてるんだよ!」
「だって翔くんが珍しく褒めるから!」

帽子のつばを持って深く被るとさらに上から翔くんの手がぐいぐいと私の頭を押してくる。顔を見られたくないから好都合なので、逆らわずに下を向く。

「そのピンはやる」

もう一度頭をぐいっと押される。そして「でも帽子はあとで返せよ」とだけ言って翔くんが離れていった。翔くんがいなくなっただけで教室は一段静かになったように思えた。「はー」とやけに長い溜め息がでた。やっと満足に息が出来る。

授業間の休み時間なんてすぐに終わってしまう。しかも次はまたこの教室で教科の授業だ。すぐに翔くんは戻ってくるだろう。それまでにはこの赤くなった顔をどうにかしなければ帽子を返せないなと思いながら、私は机に突っ伏した。

2011.07.30