廊下をすれ違う女の子たちの「レン、こっち向いてー」という声にウィンクを飛ばし、「レン、遊びに行こうよー」という声に「また今度ね」と答えてキッスを投げる。レンと歩くとレコーディングルームまでの短い距離を移動するにも時間がかかって仕方ない。たまたま途中の廊下で会ったから一緒に歩いているのだけれど、こんなことならば彼を置いて先に行けば良かったと後悔した。もっともパートナーで同じ部屋に向かっているからという理由以前に私とレンは恋人同士なので彼から誘われれば断れるはずがなかった。けれどもいい加減先ほどまで自習で使っていた楽典を持つ手が痺れてきた。

「神宮寺さん、早くしないとレコーディングルームの予約の時間が」
「分かってる」

私が小言を言おうとすると彼は短くそれを止める。女の子たちの前でレンが私へ向ける言葉は冷たい。もっともその前に私の言葉だって随分とつんけんとしたものだから人のことばかりは言えない。

「じゃあね、かわいいレディたち」

そう言って彼は女の子たちに向けて手を振る。それすらも格好良く決まっているのだから私は彼のアイドル性というものに感心するしかなかった。数歩歩くごとに女の子に名前を呼ばれるのだから彼の人気を嫌でも思い知らされる。

やっとレコーディングルームに辿り着く頃には私はもうくたびれていて、分厚い扉を後ろ手に閉めると思わず「はぁ」と大きな溜め息が出た。本当ならばもっと早めに来て色々と準備をしておきたかったのに、その時間もなくなってしまった。レンが投げキッスなどをしていちいち立ち止まるせいだ。

「どうしたんだい、溜め息なんて吐いちゃって」

わざとらしくレンが近寄ってくる。さっきまで人ひとり分空けて歩いていた距離を詰めて肩を抱いてくる。私たちが恋人同士であることは内緒なので仕方ないのだが、こうしてふたりっきりになった途端に距離が近づくのにはいつになっても慣れない。

「もしかしてオレのせいかな」

その言葉にどきりとする。レンがこうして眉を下げる表情に弱い。私のその様子を見てレンは楽しそうな顔をした。さらには「投げキッスをしていたのが気に入らなかった?」と言ってくるのでますます驚いた。

が嫉妬するなんて珍しいね」

それだけが理由じゃなかったのだけれど、嫉妬を全くしていなかったわけでもないので私は反論せずにただ唇を尖らせた。そりゃあ自分の恋人が他の女の子にやさしくしているのを見て喜べるほど私は出来た人間じゃないですよ。それはレンだって分かっているはずなのにわざとそういうことを言うから嫌だ。不愉快そうに見える顔をわざと作っているのにレンはそれを見ても「かわいいね」と言ってくるのでまるで効果がない。

「ハニーにはこれをあげる」

そう言ってレンは自分の唇に二本指を当てた。投げキッスをされたってと不貞腐れた気分のままでいるとレンはそのまま一歩距離を詰めるとその二本の指をそっと私の唇に押し当てた。ふにっと私の唇の感触を確かめるように動くとその指は離れていった。何が起こったのか分からずぼーっとしている私の顔を見てレンは楽しそうに笑った。

「それとも投げないキッスがお望みだったかな?」
「イイエ、これで十分デス」

レンが屈み込んで私と視線を合わせると、彼の形の良い唇が私の目の前で弧を描いた。私がその唇から目を離せないでいるとその顔がすっと引く。

「さぁ、ハニーの機嫌が直ったところで早速練習を始めよう」

そう言ってレンは何事もなかったかのようにブースへ向かおうとする。そこでやっと私は我に返った。一瞬遅れて恥ずかしさが込み上げてくる。まるでこれじゃあ私が期待していたみたいじゃないか。悔しかったので私は持っていた分厚い楽典を思いっきりレンの背中に向けて振り下ろしてやった。完全に不意打ちだったらしく彼が「いだ!」という声を上げる。

「何するんだ、ハニー!」

レンは少しぐらい痛がればいい。


2011.10.04