「あ、ナギくんのこの表情、すごく格好良いね」
 それはするりと、まるでリボンが解けるように訪れた。

  *

「ナギくーん、そろそろ出る時間だよ……って、あれ?」
 彼のお気に入りのソファの上は空っぽで、さっきまでここでホットミルクティーを飲んでいたはずのナギくんの姿はどこにもなかった。ついでに言うとローテーブルの上にあるはずのマグカップも片付けられている。
 予想外のことに思わずぽかんと口を開けてソファの上を見つめたけれど、いくら目を凝らしてもそこにナギくんの姿が浮かび上がってくることはない。シオンくんはいつものソファの定位置にきちんと収まっていて、そんな私を不思議そうに眺めていた。
「何やってるの?」
 後ろから聞こえた声にハッと慌てて振り返る。そこには上着を着てリュックを背負って、もうすっかり出掛ける準備万端といった様子のナギくんが立っていた。
「ほら、早くしないと遅刻するよ」
 ぼーっとしている私に少しだけ呆れたような表情をしてから、彼はするりと踵を返して玄関から外へ出ていく。
「あれ?」
 
 けれども、おかしなことはそれだけではなかった。
「お疲れ様! 今日もばっちりだったね!」
「トーゼン」
 午前の収録も無事に終わり、労いの言葉を掛けるとナギくんが胸を張る。他のメンバー同様ナギくんも仕事に対してとてもストイックで、頭の回転も早くてまだ十代とは思えないほどしっかりしている。もちろん年相応のいたずらっ子だったり甘えたがりな面もあるけれども。仕事のときはとても頼りになる子だ。
 ナギくんにペットボトルのお茶を差し出すと彼はそれを受け取っておいしそうに飲む。小さく彼の喉が鳴った。
「えっと、次のナギくんの予定は……」
「ファッション誌の撮影でしょ? 十五時からだから少し時間に余裕はあるよね」
 私がスケジュール帳のページをめくっている間に、ナギくんは私にペットボトルを預けて歩き出してしまう。
 その姿に私はまたぽかんとしてしまった。手帳を捲る手は中途半端なところで止まり、行き場をなくしている。
 おかしい。ナギくんはこうして一つの仕事が終わったあと必ず次の予定を私から聞くのがお決まりだったはずなのに。
「何してるの? 置いてくよ?」
 少し先で彼が立ち止まってこちらを振り返る。
「すぐ行きます!」
私はパタンと勢いよく手帳を閉じると慌てて鞄にしまって、彼の後を追いかけた。

  *

「――ナギに避けられてる気がする?」
 私の言葉を瑛二くんとヴァンくんが繰り返す。私はずーんとテーブルに突っ伏して沈み込んだまま力なく頷いた。
「そんなこと、ないと思いますけど」
「どーやったらそんな答えにたどり着くんや」
 瑛二くんは困惑したように、ヴァンくんは呆れたように言葉を返す。
 こんなことを彼らに言うべきではないと分かっていたけれど、心配してわざわざ声を掛けてくれたふたりの優しさに、つい本当のことを話してしまった。
「だって、前なら出掛ける前は私がナギくんの上着を取ってきて着せてあげてたのに今日は私が声を掛けに来る頃には支度が終わってるし、スケジュールも一個終わるごとに私に確認してくれてたのに朝には一日の予定がすっかり頭の中に入っているみたいだったし、帰りは遅くなるからひとりでも大丈夫って言い出すし……」
 気のせいだと思おうとしたのだけれど、日に何度もあれば偶然とは思えなかった。こんなこと、今まで一度もなかったのだ。
「まるで、私なんか必要ないみたいに……」
 そこまで言いかけて、自分の言葉にじわりと視界が滲んだ。
「うわーん!」
「あー、泣くな泣くな!」
 アルコールでも入っとるんかと、ヴァンくんが私の飲んでいた缶ジュースを取り上げて調べる。残念ながらアルコールは一滴も入っていないただのオレンジジュースだ。
 お酒は飲んでいないはずなのに、今日は何故か感情のコントロールが上手く利かない。それがナギくんのことだからなのか、最近忙しくて疲れているせいなのかは分からなかった。
 そんな私を気遣い慰めるように瑛二くんが温かい紅茶の入ったカップを差し出してくれる。
「なんて言うか、今までのナギが甘えすぎだったような?」
「全然そんなことないと思うけど……」
 瑛二くんの言葉に今度は私が納得いかない顔をする番だった。
 私自身、年少のナギくんにはつい心配で構ってしまう自覚はあるけれども、ナギくん側が甘えすぎだと思ったことはない。
 もしかしたらナギくんの仕事のモチベーションが上がっているだけかもしれないし、プロとしてより一層意識が高くなっただけかもしれない。それなら良いことではないかと思おうとするのだけれど、やっぱり寂しさが勝ってしまう。
 このままナギくんが私に一声も掛けてくれなくなってしまったらどうしよう。もし、ナギくんに嫌われてしまったのだとしたらどうしよう。
「ま、これを機にナギ離れやな!」
 そう明るく言ってヴァンくんが私の背中を叩く。
 ナギくんだって年頃の男の子だ。もしかしたらそういうのも必要なのかもしれない。ナギくんのことを思えば私の我儘ばかり押し通すわけにはいかない。
 ずずっと鼻水をすすりながら顔を上げると、苦笑するふたりの顔が見えた。

  *

「ナ――いや、帝さん」
「何その呼び方」
 いつものようにナギくんと呼びかけてやめると、彼がジト目でこちらを振り返った。
 彼のためにいれたホットミルクティーのマグカップをテーブルの上に置くと、私も彼の隣に腰掛ける。ちょっとだけ彼が端に寄って私のためのスペースを空けてくれた。
 他のメンバーはまだ戻ってきていなくて、珍しく部屋にふたりきりだった。
「いや、ナギくんもいつの間にか大人になってたんだなぁと思って。今までの呼び方は子ども扱いだったかなと反省しまして……」
 だから帝さん、と説明すると彼は見る見るうちに眉間に皺を寄せ、不機嫌そうな顔になった。
 もうちょっと甘えてほしい、なんていうのはきっと私の我儘なのだ。今も十分売れっ子だけれど、HE★VENSがもっともっと売れに売れて超超超国民的伝説のスーパースターになったら私がナギくんについてあげられないことも増えるだろうし、今もすでにそうなりかけているし。別に悪いことではなく、むしろ良いことなのだから喜んだらいいのに素直に歓迎出来ない私の方がきっとおかしいのだ。事実、瑛二くんもヴァンくんもそのようなことを言っていたではないか。
「何それ」
 つまらなそうにそう言って彼はミルクティーを口元へ運んだ。両手でマグカップを包むように持つ姿はいつもと変わらないように見える。背中を丸めてちょこんと座るナギくんは宇宙で一番かわいい。
「他のメンバーはボクより年上でも名前で呼んでるでしょ」
 そう言われればそうだ。メンバー間も名前で呼び合っているし、鳳兄弟がいるからかスタッフも皆メンバーのことはさん付けくん付けの違いはあれど名前で呼んでいる。ナギくんのことを苗字で呼ぶ人なんてうちのスタッフでは稀だ。
「ボクがいつそんなこと頼んだわけ?」
「でも、ナギくん最近何でも自分で出来るようになったし、最近大人っぽくなった気がするし……」
 それからそれから、と指を折っていくつか言い訳を挙げる。考え始めればいくつも理由はついてきて、切りがない。
 今までの距離感が正しかった自信もない。
「そりゃあ子ども扱いはしてほしくないけど」
 コトリと彼がマグカップをテーブルに置く音がする。
 いつもより静かな部屋の中では、ナギくんが身じろぐ微かな音も拾ってしまう。
「勝手に距離取らないでよ」
 そう言って彼が膝の上にあった私の手を握った。私の手をすっぽり包んでしまう手のひらの大きさに少しだけ驚いた。
 顔を上げると、彼の瞳の中できらきらとした光が瞬く。アイドルのきらめきはこんなときでも輝くらしい。やはりナギくんは本物だ。
 本物の、きらきらした、素敵な人。
 ステージの上で歌って踊っているときも、写真に映った彼も、そうでないときも、いつでも等しくきらめいていて、かわいくて、格好良い。
 見慣れているはずなのに、つい見入ってしまった。その目をぽうっと見つめ返すと、やわらかな色の瞳がそっと細められる。
「そっか、単純なことだったんだ――」
 彼が小さな声でそう呟いて、ほっとしたかのように息を吐く。かと思えば、次の瞬間にはまるで目が覚めたかのように晴れやかな表情のナギくんがこちらを見つめていた。
「どうしたの? 何が分かったの?」
「なんでもなーい!」
「えっ、えっ?」
 話の見えない私は頭の上にはてなマークを浮かべることしか出来なかった。本物の天才である彼の思考スピードに私がついていけるはずがない。
 ぽかんとしている私を置いて、ナギくんは満足そうな顔でソファから立ち上がった。
「覚悟、しといてよね。これからボク本気でいくから」
 そう言ってナギくんがぴしりとこちらを指差して、ウィンクして見せる。その姿にドキリと心臓が鳴った。
 ――何故だか彼のことばかりが気になる。ナギくん離れなんてまだまだ出来そうになかった。
 

2020.10.24