困っている人がいたら助けなさい。その言葉自体はとても良いものだと思う。

パートナーである聖川くんとレコーディングルームでの前の打ち合わせを中庭でするために並んで歩いていると、前方をクラスメイトの山田さんがクラス全員分のノートを抱えてふらふらと歩いていた。思い起こせば先ほど授業が終わる間際に今日提出のノートを集めて職員室まで持ってきてほしいと林檎先生が山田さんに頼んでいたように思う。もちろん私も教卓の上にノートを置いた。そのノートをひとりで運ぶのは山田さんの細い腕では大変だなと思って彼女に声を掛けた。

「ひとりで大丈夫?」

そう声を掛ければ山田さんは「大丈夫」と笑顔を見せた。でもその笑顔は無理矢理作っている感じがして放っておけなかった。けれども私以上に隣にいる彼の方が困っている人を放っておけない性格をしていた。

「手伝おう」

じわじわと心の中で何かが広がっていくような感じがする。聖川くんは基本的に誰にでも親切だ。優しい。困った人がいれば放っておけないし、何か頼まれれば 精一杯力になろうとする。こういう人のことをリーダーシップがあるというのだろう。聖川くんの家は財閥だというから帝王学とかそういう将来人の上に立つための教育をされてきたからかもしれない。

「そうだよ、聖川くん手伝ってあげなよ」

突然の聖川くんの申し出に困った顔で私と聖川くんの顔を見比べる山田さんに向かってにっこり微笑んでみせる。すると聖川くんは自分から手伝いを申し出たくせに一瞬嫌そうな顔をした。

「でも、さんと用事があったんじゃないの?」
「いいの。私の話は本当に大したものじゃないから。それより早く運ばないと林檎先生困っちゃうよ」
「じゃあ聖川くんお願いしてもいいかな?」

「ああ」と彼は私の方を見向きもせずに言う。もうちょっと私に対して何かあってもいいんじゃないかと思う。悪いなだとかまたあとでだとかもう一言ぐらいあってもいいと思う。これじゃあ私たちが喧嘩しているみたいだ。山田さんも不思議そうにしている。

「じゃあ先にレコーディングルームに行ってるから。またあとでね、聖川くん」

私がそういうとやっと彼は「ああ」と言う。やっと口にしたと思ってもそればっかりだ。これでは口が取れてしまったのではないかと心配になってしまう。しかも視線は私の方に向いてはいない。

「本当助かったよー」と言いながら山田さんと聖川くんは連れ立って廊下を歩いていった。「そういえばこの間の課題の歌、聞いたぞ。なかなかに良かった」と山田さんとは普通に喋っているから特別機嫌が悪いわけでもないらしい。

基本的に聖川くんはいつも私の目を見て話してくれる。聞こえればきちんと返事をしてくれる。くだらない話でも私の話を聞いてくれる。それが当たり前で、それが彼だと思っていたのだ。こんなこと今まで一度もなかった。

たまたまだったかも知れないけれどなんだかグサリと心臓が痛くなった。

聖川くんは親切でやさしくて、そこが彼の良いところだと思っているはずなのに、今だけはそれを嫌だと思ってしまう私はすごく嫌な子だ。手伝ってあげなよと自分で言ったくせに今日はレコーディングルームでの練習の前に少し打ち合わせするってずっと前からの約束だったのにと不機嫌になる私がいる。グサリと何かが刺さったかのような痛みはさっきの一度きりだったけれど、その代わりにどんどんどんどん心臓が重くなっていくようだった。はぁと息を吐くのも苦しくて壁に寄りかかってやりすごしていると 「あれ、こんなところでどうしたの?」と聞き慣れた明るい声がした。

「今日はマサと練習するんだって言ってなかった?」
「一十木くん……」

ここで友人に出会えたのは気が紛れそうで良かったと思ったのに彼の名前を出されてまた気持ちが沈んだ。十分ほど前までは放課後をとても楽しみだったことまで思い出してしまった。今ここで聖川真斗の名前は出さないでいただきたい。

「わっ!ちょっと何で泣いてるの!」

顔を上げると一十木くんが驚いた声を出した。その言葉に慌てて顔を触って見たけれどもどこも濡れていなかった。自覚のないうちに泣いていたのかと思ってびっくりしてしまった。

「いや、泣いてないし」
「いやいや、泣いてるも同然だよその顔」

涙は流れていなかったけれども、表情のことを言われると今ここに鏡がないのであまり自信がない。私は今どんな表情をしているのだろう。一十木くんの言うその顔とはどんな顔なのか。

「よしよし」

一十木くんの手のひらが私の頭に乗せられて、ゆるゆると撫でられる。こういうことを自然に出来る一十木くんはずるいと思う。そうして撫でられるままにされている私も実は相当弱っていたのかもしれない。そういえばこの間返ってきたテストの点数も悪かったし、昨晩は遅くまで作曲してみたけれど結局納得のいくものは出来上がらなかったし、実は私は疲れているのかもしれない。頭を撫でられていると安心する。

「泣いてるのってもしかして、マサが原因?」

一十木くんは妙なところで鋭いから困る。仮に今私が泣いているとして、もしもその原因がひとつあるのだとしたら、それは聖川くんになるだろう。

「一十木、何をしている」

不意に私の後ろから声が聞こえて私は身をこわばらせた。さっき別れたばっかりなのにどうしてこんなに早く戻ってくるの? しかも本人の名前が出た直後で。

と、何をしていた」
「何って泣いてたから慰めてただけだよ」

泣いていないのに一十木くんは嘘を言う。何となく聖川くんと顔を合わせづらくて一十木くんの影に隠れる。もしも聖川くんがまた目を合わせてくれなかったらどうしよう。もし私の気のせいなんかじゃなくて、本当に聖川くんが怒っているのだとしたら気まずい。

「もー、分かってるってば。そんなに睨まなくてももう行くよ」

顔を合わせたくないと思っているのに一十木くんはそんな私の心情はまるで無視してひょいと私の前から退いてしまった。来たときと同じように、彼は跳ねるように去ってしまう。残されたのは聖川くんと私のふたりだけ。

「……」
「……」

こんな何もない廊下にふたりきりで残されてどうしろと言うのか。聖川くんは黙っているし、私から話すこともない。黙ってふたりで突っ立っていると不意に聖川くんがぽつりと言葉を落とす。

「俺の前では泣けなかったのか?」

私は小さく首を縦に振った。そもそも泣いていないのだけれど、もし涙を流していたとしても聖川くんの前で泣けるわけがない。そもそもこのことに気付いたのは聖川くんが山田さんと行ってしまったあとだったし、もしそのあと聖川くんがすぐ帰ってきたとしても本人の前で泣けるわけがない。

「見ないで。お願いだから見ないで……」

涙は出てないけれども一十木くんに泣いてるも同然だと言われた顔を晒すわけにはいかなかった。聖川くんになんと言われるか分からない。俯いて、手で顔を隠す。

「お前はいつもそうだな」

聖川くんが私の頭を撫でる。一十木くんに撫でられたときは不思議と安心したのに聖川くんはその逆だ。全然安心出来ない。触れられたところがじんじんと痺れる。変だ。こんなのおかしい。今日は聖川くんの前に立つといつもの自分じゃなくなってしまうみたいだった。

「もう見てしまったんだから今さら隠したって無意味だろう」

そう言って彼は私の頬に触れる。見たなら涙が流れていないことだって分かっただろうに。頬に触れたらなおさら濡れていないことが分かるだろうに。触れる指はどこまでもやさしい。

「触らないで」
「嫌か?」
「イヤ」
「ならばもうしない」

そうやってすぐ私の言うこと聞いてしまうところも嫌い。私が嫌だと言えば頬を撫でていた指は離れてしまうし、私が手伝ってあげなよと言えば山田さんを手伝ってしまう。そんなに素直でなくたっていいのに。

「ヤダ」

聖川くんの服を掴む。今日の私はやっぱりおかしい。きっと疲れているのだ。離れてからその指が恋しいと思ってしまうなんて。


2013.07.31