「危ない!」と言う声とともに腕を強く引かれた。
*
「あんな風に誰にでも気安く触れるなど……」と聖川くんが言っていたのを聞いたことがある。あのとき彼は確か神宮寺さんを見て言っていたのだと思う。神宮寺さんは女の子とふたりっきりで、彼女の髪を指で軽く梳いていた。女の子の方は俯いていて、真っ赤な耳だけがのぞいていた。
「あの子は神宮寺さんの彼女ではないのですか」
私がそう言うと聖川くんは一瞬目を丸くして驚いたあと「まさか」と言った。私からすれば神宮寺さんはいつも女の子に囲まれているけれども誰か特定の女の子とふたりきりでいたところは見たことはないし、明らかにふたりの間には特別な雰囲気が漂っているように思えたのだけれど聖川くんはそうは思わなかったらしい。
「ああいったことは心に決めた一人の女性とするべきだ」
私は正直、ハグぐらいで大げさだなあと思ったのだけれど、聖川くんが大真面目な顔をしていたので口を閉じた。隣に立つ聖川くんの横顔は、真っ直ぐ前を見つめていた。聖川くんが女の子を抱き締めることは決意の果ての行動で、私にとってはたかがハグひとつにしても彼にとっては特別なことなのだろうと思った。そうして聖川くんに抱き締められる女の子はなんてしあわせなんだろう、とも。
*
私は今、聖川くんの腕の中にいる。
とは行ってもこれはハグではない。事故だ。転びそうになった私を聖川くんが腕を引いて抱きとめてくれた。転びそうになったといっても、ちょっとつま先が段差に引っかかっただけで、次に反対の足を一歩踏み出せば転ばなかっただろうという程度のものだ。放っておいても自分で体勢を立て直すことは出来た。それなのに私が少しバランスを崩すのを見て彼は咄嗟に腕を引いてくれたのだ。
「聖川くん、ありがとう」
正直抱きとめるなんて大げさだったのだけれど、聖川くんも人命がかかっていると思って必死だったのだろう。助けてもらったことには代わりはないのでお礼を言ったのだけれど、その返事は待てども待てども返ってこなかった。
「聖川くん……?」
名前を呼んでも返事はない。不審に思って顔を上げると、彼はぽうっとした表情で私の顔のあたりをぼんやりと見ていた。ただただ、聖川くんが近いことに今さら気が付いた。
「あの、離して、くれる?」
「す、すまない……!」
そう言って聖川くんは私の肩から手を離した。同時にパッと飛び退くように距離を置かれる。
「少し考え事をしてしまっていた。本当にすまない」
「何を考えていたの?」
転びそうになった人間を受け止めて、その体勢のまま彼は何を考えていたのか。やはり事故とはいえ、こんな風に女の人を抱きしめてしまったものだから彼の脳みそはショートしてしまったのかもしれない。
「お前の肩はこんなにも細かったのか、と」
そう言って聖川くんは顔を真っ赤にするものだから私までつられて赤くなってしまった。ただのハグじゃないか。女である私の方が男よりも肩幅が狭いのは当たり前のことだ。それなのにどうして今さらそんなことを考えるのだろう。
私までなんだか恥ずかしくなって俯いていると聖川くんの手のひらが再び肩に乗った。ぐっと力が込められる。
彼がたかがハグでも軽々しくそんなことをしないのだということを改めて思い出してさらに頬に熱が集まる。聖川くんにとっては、特別なことなのだと。彼は心に決めた女性としか触れ合ったりしないのだと。
「聖川くんは、軽々しくハグしないって言ってたのに。いけないんだ」
茶化すように言うとそれまで視線を逸らしていた彼は、はっきりと私の目を覗きこんだ。
さっきのは私を助けようとして勢いが余ってしまっただけの事故だった。じゃあ、この肩に乗せられた手には彼にとってどんな意味があるのか。聞いてみたい気もしたけれども自分から言い出す勇気は持てなかった。
彼は先ほどの私のからかう言葉には答えず、ただ私を見つめる。それが答えだった。
2013.05.31