廊下を駆けるなんてはしたないと頭では分かっていても、逸る気持ちを抑えきれなかった。

廊下の角を曲がって後ろ姿を見つけると私は立ち止まって大きく深呼吸をした。息を整えて、心臓を落ち着かせると今度は早足で彼を追った。

「真斗様、お久しぶりです」

十分に距離を詰めたところで私がそう声を掛けると真斗様は足を止めた。振り返った彼の目が私を捉えて心臓がドキリと大きく跳ねる。

真斗様は寮生活をしてらしてお屋敷にはなかなか帰ってこない。帰ってくるのは聖川家の嫡男として出席が義務付けられている会議や会食のときだけだ。それだってすぐに学校へ戻ってしまって会えないことが多い。けれども嬉しいのは久しぶりに会えたからだけではない。私が彼を好いているからだ。

「ああ、か」

そう私の名を呼んだ。それだけのことで私の頬はすぐに熱を持つ。真斗様は「じいは先に行っててくれ」と隣に控えていた藤川さんに言うと改めて私に向き直った。

「お会いできてうれしいです」

本当の私はこんなおとなしい性格ではなく、むしろおてんば娘だと両親には呆れられるくらいなのだけれど彼の前になると急にしおらしくなってしまう。真斗様はこういう性格が好きそうだからとか猫を被るつもりは全くない。ただ、彼の前に立っていざ何かを喋ろうとすると緊張してつい俯いてしまうのだ。真斗様の顔を見るとドキドキしてしまうし、声もいつもより小さくなってしまう。

私は真斗様を好いている。そして彼は私の婚約者だ。

私と真斗様が出会ったのはパーティーの席でのことだった。そのときの私は人に酔ってしまったのか気分が悪くなってしまった。そのとき助けてくれたのが聖川家の嫡男である真斗様だった。廊下でうずくまっているとたまたま通りかかった真斗様が「大丈夫か?」と私の背中をさすってくれたのだ。あのあたたかい手のひらの感触をまだ覚えている。当時はまだ聖川家の方だとは知らなかったけれど、いつ会っても礼儀正しくやさしい彼に私は彼に惹かれた。

その後真斗様の許嫁になれたときは本当に嬉しかった。親同士が勝手に決めたことでそこに私の意志は全くなかったけれど、幸運に感謝した。正直それまでは勝手に決められた結婚なんて御免だと思っていたのだけれど、その相手が聖川真斗ならば話は別だった。それまで反抗していた私が急におとなしくなったものだから両親は驚いたが、また私の気が変わってはいけないと思ったのか深く詮索することはなかった。

「あの、真斗様、私お菓子を作ってきたのです」

以降、私は以前よりも一層お料理やお稽古事に勤しんだ。真斗様の許嫁として恥ずかしくないような人間にならねばならないと思った。真斗様は手先が器用でお料理もお裁縫も何でもこなしてしまうから、私は真斗様に追いつけるように努力しなければならなかった。頭の出来などでは私は彼に遠く及ばないけれども、家事などは真斗様と同じか、それ以上でなくては許嫁など恥ずかしくて名乗れない。

「こういうものはお口に合わないかもしれませんが」
「いや、ありがたくいただこう」

そう言って真斗様は私の手から包みを取った。その際に指の先が少しだけ触れ合って、私はびくりと身を強ばらせた。ほんの一瞬指先が触れただけなのにどうしても意識してしまう。

「真斗様今夜はまだこちらにいらっしゃるんですよね」
「ああ、明日の昼過ぎに学校へ帰る」
「もし、もしよかったらお夕食をご一緒できればと」
「夜ならば特に予定は入っていない」
「では…!」
「お前とゆっくり話す機会はなかなかなかったからな」

そう言って真斗様はやわらかい表情を私に向けた。

高校も本来ならば真斗様と同じ学校へ通うはずだった。真斗様は一流の進学校に通っていて、私も同じように親によってその学校へ通うことが決められていた。それに不満はなく、むしろ真斗様と同じ空間で過ごせることが楽しみで仕方なかったのだが、真斗様はいつの間にか周りを説得し二年次からは早乙女学園へ通うことになった。高校生になれば毎日真斗様に会えると思っていたから残念だったけれど、真斗様が自身で決断したことを非難する気などなかったし、彼の夢はなんだって応援したいと思った。

「とても嬉しいです。真斗様とお話できることが」
「お前はいつも大げさだな」

そう言って真斗様は私の頭をぽんと叩いた。そんなことですら私は嬉しさでいっぱいになる。子ども扱いされているようだけれど、いつもは遠い真斗様が今は私の目の前、手を少し伸ばせば触れられる距離にいるのだと実感出来るから。

「時間は七時で良いか?」
「はい、構いません」
「では、またあとで」

そう言って彼はぽんと私の頭に手を置くと、かすかに口元に笑みを浮かべた。ぶわりと熱が上がって私はますます俯いた。きっと今の私は耳まで赤く染まっているだろう。手が置かれたのはほんの一瞬のことで、すぐに真斗様が踵を返して去る足音が聞こえた。

こんなことでは一緒に食事をするなんてとてもじゃないけれど心臓が持たないと思う。

真斗様はいつも落ち着いていて、私にやさしい。こんなに素敵な人が私の婚約者でいいのだろうかとたまに不安になるときもある。真斗様は結婚するとなれば私をきっと大切にしてくれるだろう。でも、私は欲張りだからそれだけじゃなくてちゃんと私を好きになってほしい。好きになってもらうためなら何でも出来るような気がするし、好きになってほしいからこそ彼の前では何も出来なくなってしまうから厄介だ。ただ言葉で応援するだけでなく、真斗様にもっと何かしてあげることが出来ればいいのに。そう思いながら私ももと来た廊下を今度はゆっくりと戻っていった。


2012.03.05