――どうして、こんなことになったのだろう。

膝の上にころりと転がる黒いかたまりを見ながら、私はこっそり深い息を吐いた。

レッスン室にこもる綺羅くんに「少し休憩した方がいいよ」と言ったのは私だ。練習の邪魔にならない部屋の隅に座って、彼のために買ってきた水や軽食を鞄の中から取り出して並べていると、「ん」とだけ、短い返事のような、彼の口から漏れたやわらかい小さな音と同時に綺羅くんはごろりと横になって私の膝に頭を乗せたのだった。それがあまりにも当たり前のように行われたものだから、私も反応が遅れてしまった。

「綺羅くん?!」と驚く私の声も聞こえないふりをしたのか、本当に聞こえないほど疲れていたのか。

こうして横になって眠る綺羅くんはまるで小さな子どもみたいでかわいい。本当は身長も高くて、無口でクールな雰囲気を持っている彼をこんな風に思うのが何だかちぐはぐでおかしかった。綺羅くんがこうして私の膝の上で寝ているのも、それだけ心を許してくれた証なのだろうかとか、疲れた綺羅くんを癒すために私に出来ることなら何でもやりたいだとかそういう思いが湧き上がる。それと同時に、地下のレッスン室には日差しなんて届かないはずなのに、何だか午後の陽だまりの中にいるかのようなあたたかい心地がした。

「綺羅くん」

思わず、気持ち良さそうに眠る綺羅くんの、ふわふわとした髪に触れる。いつもは強くまっすぐにこちらを射抜く瞳ばかりが目を引くが、彼の黒い髪は意外にもやわらかいのだ。額に掛かった前髪をよけると、伏せられた男の人にしては長い睫毛と、きれいな鼻筋が露わになる。つい触り心地の良さに負けて、規則正しいリズムで綺羅くんの頭を撫でる。綺羅くんのやわらかくてそれでいて少しだけ癖のある髪が私の指の間を通っていく。

「……ふふ」

不意に、小さな笑い声が部屋に落ちる。思わずドアの方を見たがそちらに人影はなく、だとすればこの場で音の発生源はもうあとひとつしかない。視線を落とせば、綺羅くんの体がまた小さく揺れた。

「き、綺羅くん起きて?!」

驚いて、ずっと彼の頭を撫でていた手を離す。ぐっすり眠っているものだと思い込んでいたのに、起こしてしまったのだろうか。調子に乗って頭を撫でてしまって、しかも鼻歌まで歌いそうな勢いだったのだ。勝手に上機嫌になっていた恥ずかしさと、静かに寝かせろと言われるんじゃないかという焦りで、思わず両手を挙げてしまう。

それなのに、ごろりと姿勢を変えて顔をこちらに向けた綺羅くんは、珍しく口の端がゆるやかなカーブを描いていた。

さんの手のひら、気持ち良い」

猫のように擦り寄って言うものだから、私の心臓は密かにどきりと鳴る。そういえば綺羅くんの髪は太陽の光をいっぱい吸った黒猫のようだった。

「……撫でられるの嫌じゃない?」
「なぜ?」
「何故、って……。他人に撫でられるの嫌な人もいるでしょう? 落ち着いて寝られないとか」

現に私は綺羅くんを起こしてしまったわけだし。膝の上に頭を乗せてきたのは綺羅くんだけれど、こちらから触れていいなんて言われたわけではないのだ。枕として大人しく膝だけ貸してほしいということだってあるかもしれない。

さん」

綺羅くんと目が合う。一秒、二秒。そんなに長い時間ではなかったはずなのに、綺羅くんの瞳に視線が絡め取られる。いつもは鋭く強い光を持ったその瞳が細められて、あわい木漏れ日が舞うような微笑みを見せた。

「嫌じゃない、から」

『から』のあとに続く言葉は何だろう。『嫌じゃない』に込められた意味は何だろう。その答えを、私は知っているような気がした。綺羅くんと話していると時折、ぽっと胸の一番奥にやさしい明かりが灯るようなそんな心地がするのだ。そのうちに、その綺羅くんがくれた灯でいっぱいなって、苦しいわけじゃないのに、言葉が詰まるように出てこなくなる。

さん」

私の名前を呼ぶ声は、いつも以上にやわらかくて、私の返事を催促するものでも、何も出来ずにいる私を非難するものでもない。ただただ、溢れてしまったかのように私の名前を呼ぶのだ。――どこから、何が、溢れてしまったのか。それも私は知っているような気がする。彼にこうして呼びかけられると、私も何が溢れてしまいそうになる。ただ、私の場合は溢れそうになると、綺羅くんのように相手の名前を呼ぶことも出来なくなってしまうのだ。

「止めないで」

それなのに、綺羅くんはそんな私の心情すら見透かしたようにまたふわりと眩しそうに目を細めるものだから、私なりに何かを返したくなる。――綺羅くんの目に今の私はどんな表情で映っているのだろう。

答えられない私は、ただ返事の代わりにもう一度綺羅くんの髪に手を差し入れた。

2017.02.05