「薫くん」と彼の名前を呼んだ声は思った以上にふたりきりの教室に響いた。

放課後皆が帰ったあと、薫くんはたまに教室に残っていることがある。図書館で借りてきたのだろう分厚い参考書を読んだり、問題集を解いたり、あるときはファッション雑誌を読んでいることもある。理由は知らないが、薫くんが放課後残るのは毎日ではない。だから私は薫くんが次残るのはいつだろうとチャンスを窺っていたのだ。このときのために私は何度問題集を鞄から出し入れしたか分からない。

「薫くん、ちょっといい?」
「何か用?」

そう言って薫くんが見ていた参考書から顔を上げる。

私は『薫くん』と彼を呼ぶのが好きだ。名前にくん付けはちょっと親しい感じがする。しかし『薫くん』と呼ぶのは私だけではない。クラスメイトのほとんどが彼を名前で呼ぶ。それは彼が双子であることに関係している。彼の双子のお兄さんを私たちは知らないが名前で呼んでほしいと言ったからそう呼んでいる。ずっとお兄さんと一緒に育ってきて小学校中学校と名前で呼び分けられてきたから今さら苗字で呼ばれるのに慣れないそうだ。

私が特別なのではない。その証拠に薫くんは私を苗字で呼ぶ。私個人としては薫くんの特別になりたいなぁと願ってはいるのだけれど、まだまだそれは遠いらしい。

「ここの問題の答えが分からないから教えてもらえないかなと思って」

それでも今は彼の名前を呼ぶだけでしあわせな気持ちになれる。彼が返事をしてくれるだけでうれしい。無意味に名前を呼んでは特別になった気分を味わう。

「いいけど。どれ」
「これ」

そう言って問題集のページを開いて指差す。薫くんの前の席の人がいないのをいいことに勝手に椅子を拝借する。ここの席の人は羨ましい。ちょっと後ろを振り返れば薫くんがいるなんて素晴らしい毎日だ。生憎私の席は薫くんと近いどころかむしろ毎回席替えをするたびに遠ざかっているくらいだ。近くの席だったらちょっとついでに世間話もしやすいが、五つも六つも離れた席に座っていると話しかけるきっかけを掴むのだって一苦労だ。

「こんなのも分からないの?」
「この分野苦手で」
「しょうがないなぁ」

そう言って薫くんは椅子に座りなおしてシャーペンを持った。薫くんがペンを持つ仕草が好きだ。書き始める前一瞬の伏し目が好きだ。だから私はちょっと分からない問題があるとすぐ薫くんに聞きに行く。こういうとき薫くんが優等生で通っていて良かったなと思う。自然に薫くんを頼れる。

「薫くん」
「何?」

名前を呼べば薫くんはこちらを見てくれる。ちらりと私を見上げる仕草もかっこいいなと思う。結局どの角度から見ても薫くんはかっこいいなと思ってしまうのだから我ながらどうしようもないと思う。

「えへへ」
「にやにやして気持ち悪い」

そう言って薫くんが私にデコピンする。それすらも好きな人にされるのなら痛くない。恋人同士みたいじゃないかとすら思う。ただし、薫くんのするデコピンは恋人同士がするものよりもずっと力の強いものだったがから多分おでこが赤くなってる。じんじんと痛むおでこをさすっていると、ふと薫くんがじっとこちらを見ていることに気が付いた。薫くんの綺麗な色の目で見つめられると身動きが出来なくなるから困る。



突然名前を呼ばれて口の中がカラカラに渇いて「なに」としか言えなかった。私の気持ち悪いにやにや笑いも引っ込んでしまったし、随分とかすれた声だった。

「呼んでみただけ。それとも何?は僕の名前呼びまくるのに僕が呼ぶのはダメって言うの」
「いや、薫くんがそういうことするの珍しいなと思って」
「文句ある?」
「いえいえ、滅相もない!」

慌てて手を前でぶんぶんと振る。また呼び方がに戻ってしまっていたけれども、気にならなかった。薫くんに名前で呼ばれるなんて本当に心臓に悪い。そう思っているとふいに薫くんが顔を背けた。私はシャーペンを握って再び問題集に取り掛かる振りをしながらちらちらと彼の様子を窺った。

「…顔、赤くなってんだよ」

薫くんは独り言のつもりで、きっと私に聞こえていないと思ってそう言ったのだと思う。けれども私にはちゃんと聞こえてしまったし、そう言う薫くんの耳が赤くなっていることも気が付いていた。

照れ隠しに「薫くん」ともう一度呼べば「なに?」とまた同じようにきちんと返してくれる。さっきデコピンされた額がまたじわじわとむずがゆくなってきたような気がして私はこっそりまた額を擦った。

2011.10.11