ふと壁の時計を見ると終電の時間が近付いていた。

仕事に集中していて時間が経っていることに全く気が付かなかった。慌ててパソコンの電源を落とし、デスクの上に散らばった私物を鞄の中に投げ込む。フロア内に同僚の姿はなく、どうやらいつの間にか私が最後になっていたようだった。急いで戸締りを確認して警備システムを作動させて事務所を出ると終電の十五分前になっていた。ここから駅のホームまでの時間を考えると十分間に合う時間だ。

ひとまず落ち着いてスマホを確認しようとしたのだけれど、充電が切れていることに気が付いた。一体いつから電源が落ちていたのだろう。ずっとパソコンで仕事をしていたから全く分からなかった。電話は事務所宛てに掛かってくるし、メールもパソコンで確認していたので大丈夫だとは思うが、重要な電話やメッセージが来ているとまずいのでモバイルバッテリーに差し込む。

終電に乗り遅れてしまわないよう少し急ぎつつ角を曲がろうとすると、同じように慌てて角を曲がってきた人物とぶつかりそうになった。

さんっ!」
「え、瑛二くん?!」

急ブレーキを掛けた私の肩を掴んで支えてくれたのは、よく見知った人――うちの事務所の鳳瑛二くんだった。ずっと走ってきたのかひどく息を弾ませている。何か事務所に忘れ物でもしたのだろうか。今さっき事務所のセキュリティを掛けてしまったところだけれど、解除しなくてはならないだろうか。それとも何かもっと重大なことがと考えて、さっきの衝突未遂も相まって心臓がバクバクと鳴った。

「ど、どうしたの?」
さんが連絡しても返事が返ってこないし電話も出ないから俺――」

そこまで言って何かに気付いたかのように彼の声は勢いをなくしていった。どんどん俯いていって、彼の前髪が目を隠してしまったかと思えばついに彼のつむじしか見えなくなってしまった。

「いや、あの、俺……すみません……」
「私こそごめん。携帯の充電切れてるのさっき気付いて」

やはりスマホの充電を切らしてしまったのは完全にミスだった。この情報化社会において連絡が取れないのは致命的だ。社会人失格なのではと反省する。

「何か急ぎの用だった?」

慌てて探しにくるくらいなのだからきっと何かあったに違いない。何かトラブルだろうか。そう思うと緊張でドキリと心臓が変な風に鳴る。HE★VENSに何かが? それとも瑛二くん個人に何か? もしかして他のメンバーに大変なことがあってそれを彼が伝えに来てくれたとか――? 嫌な想像は一度始めてしまうと色んなパターンが頭の中を一瞬に通り過ぎていく。

「用事はないんです。ただいつもはすぐ返ってくる返事がなかったから……。もしかしたらさんに何かあったのかもと思ったらついいても立ってもいられなくて」

そう言って瑛二くんがこちらの様子を伺うように少しだけ顔を上げる。前髪の隙間から覗く彼の目はまるで子犬のように思えた。その目とトラブルなどは何もなかったという事実に強張っていた体から力が抜けるのが自分でも分かった。

「日中から忙しそうにしてたから仕事のしすぎで倒れたんじゃないかとか、帰り道事件に巻き込まれてないかとか」
「瑛二くん心配しすぎだよ」

私が笑うと「ですよね……」と彼も少しだけ笑う。ずっと私の肩に乗せられたままだった手のひらが外されて、彼との距離が離れる。
やっとよく見えた彼の表情は、自分自身に対する少しの困惑と照れがあったけれども、先ほどの切羽詰まったような表情よりずっと瑛二くんのらしい顔だった。

私は倒れるほど周りが見えなくなるタイプじゃないし、帰り道に事件に巻き込まれることは絶対にないとは言い切れないけれども可能性は低いだろう。心配しすぎ、それには変わりないのだけれど。

「でもありがとう」

私がそう伝えると瑛二くんの瞳の中に安堵が加わる。ふたりで笑い合うと先ほどまで不安で緊張していたのが嘘みたいに、ふわふわとあたたかいもので満たされていくようだった。こんな風に彼に心配されることは申し訳なく思うのと同時に、ひどく大切にされているようで心地良かった。瑛二くんはとてもやさしい男の子で、それが彼を形作る魅力の大きなひとつのように私は思うのだ。

瑛二くんがこうして来てくれたこと、決して迷惑なんかじゃなかったときちんと伝わればいいのだけれど。

「もう夜遅いので」

そう言う瑛二くんの声はもうすっかりいつもと変わらない、ひどくやさしいものだった。

2017.07.31