「生徒会室に用事がある。もう少し待っていてもらえるか」

そう言って柳が教室を出ていったのはもう三十分も前のことだ。一緒に帰るため柳の部活が終わるのを教室で本を読んで待っていた私は少し待つぐらい今更大差ないと柳を送り出したのだが、これほど待たされるとは予想外だった。精々十分か十五分ほどだと思っていた。

柳の鞄もあるからと自分の荷物は全て教室に置きっ放しにして教室を出る。行き先は生徒会室だと行っていたので探すと言っても闇雲に歩き回る必要はない。ただ生徒会室に行ってまだ時間がかかるようだったら先に帰ろうと思った。

生徒会室へ向かって廊下を歩いていると思った通りすぐに柳の姿は見つかった。ただ、彼はひとりではなかった。

柳が女の子の頭を撫でていた。いや、正確には女の子の髪に触れていただけだったが私から見たら一瞬頭を撫でているように見えた。

「柳くん、ありがとう」と言うかわいらしい声が聞こえる。

なんだか嬉しそうにへにゃりと笑う女の子をの顔には見覚えがあった。確か柳が好きだと噂されていた子だ。だけど残念、あの子の恋が成就することはないだろう。何故ならばこの私が柳蓮二の彼女だからだ。

けれども柳もこういう女の子の方が良かったりするんだろうかとそんなことをぼんやりと考えた。

特に隠れることもせず、廊下に突っ立っていたからふとこちらに顔を向けた柳と目があった。多分私の視線を感じたのだろう。柳が「……」と私の名前を小さく呟いたのが口の形で分かった。彼のように読唇術を身に着けていなくたってそれくらいは分かる。

そこからの彼の様子は見物だった。さっと顔を青くして固まっていて、女の子の髪に触れていた手は一応離れているものの中途半端に宙に浮いたままで滑稽だ。こんな柳を見たことがない。平素冷静な柳がここまで慌てるということは何か彼の方にも心当たりがあるということだろうか。やましいことがなかったとしても、今の自分の状況が私の目にどう映るか彼は分かっているというところだろうか。そこまで考えるとそれまで不安でいっぱいだった私の頭はすっと冷えた。

迎えに来て損した。

生徒会の仕事が思いの外溜まっていたとか途中で何かアクシデントに遭遇したとか考えて心配したが、余計な気遣いだったようだ。そう思ってくるりと踵を返した。教室に置いてきてしまった鞄を取りに戻らなくてはならない。

!」

柳が私の名前を呼び、後をついて来る音がした。「待て」だの「誤解だ」だの言う声も聞こえる。後ろから聞こえてくる足音も彼にしては不規則で無駄が多いように思える。らしくない。

「お前は誤解している」

一体何を誤解しているというのだ。別に私は柳が浮気をしたとかそんな風に考えているわけじゃない。多分、たまたまあの子の髪に触れていただけなのだろう。理由は髪にゴミが付いていただとかそんなところだろう。それを私がタイミングよく目撃してしまった。そう、たまたま。それが分からない私ではない。

分かっているけれどもなんとなく今は柳の顔を見たくなくて彼の声を無視して歩き続ける。今彼の顔を見たら余計なことまで言ってしまいそうだった。

「落ち着け」
「柳こそ落ち着いたら?」

足を止めて言うと思った以上に低い声が出た。そこまで冷たくするつもりはなかった。ちょっとやりすぎたかなと反省の気持ちから振り返ると柳は今まで見たことのない表情をしていた。

違う。そんな風に言いたかったんじゃない。余計なことは言わなかったが、こんな突き放すような言い方をしたのでは意味がない。けれども出してしまった声は口の中に引っ込んではくれない。しかも柳の顔を見たらさらに何を言ったらいいか分からなくなってしまった。あれもこれも言いたいことは山ほどあるような気がするのに喉の奥に何かが詰まったように苦しい。

結局それ以上何も言うことが出来なくて、固まっている彼を置いて再び教室に向かって歩き出す。しばらく後ろからついてくる足音は止んでいたがまたすぐに柳は追いかけてきた。

「違うんだ。お前は根本的に勘違いしている」

だから、私が何を勘違いするっていうんだ!

柳が浮気なんてするわけないって信じているし、生徒会の仕事があるって言ったのも本当だろうし、女の子の髪に触れていたのも何か理由があったんだってちゃんと分かってる。勘違いなんて何もしていないのに柳は私が勘違いしていると言う。どうせ私が勘違いしている確率百パーセントだとか勝手に思い込んでいるのだろう。本当に勘違いしているのはどっちだと言ってやりたかったけれど、頭の中がごちゃごちゃしてしまって何と言っていいのか分からなくなってしまった。

もう何もかも面倒くさくなってその場にしゃがみ込むとすぐ後ろを追いかけていた柳に蹴られた。彼にだって私を蹴りつけるつもりはなかっただろうが、急に止まれなかったらしい柳の足は勢いをつけて私の背中にぶつかったからそれなりに痛かった。さすがの柳でも私がここでしゃがみ込むなんて予想出来なかったらしい。実を言えば私もこんなにすぐ真後ろにまで柳が追いついているなんて想像していなかった。

「す、すまない」

柳がこうやってどもるのも珍しい。いつもは自信満々で余裕があって、私が何を言ったって柳を口で言い負かすことなんて出来ない。少しぐらい焦った姿を見せればいいと思っていたのに、いざ焦った柳を見ても全く面白くない。それどころか不愉快だ。体勢を整えた柳が私の前に回りこむ気配がしたので体を丸めて膝を抱きかかえる形で顔を隠した。

「顔を見せてくれ」
「嫌だ」

脇の下に手を入れて立たせようとするので「触んな」と言うと柳はすぐに手を引っ込めた。不機嫌そのもののような声に加えて私が脇を触られるのが苦手だというデータを思い出したのだろう。

「頼む、こっちを見てくれ」

頼むとお願いしながらも頭をがっしりと掴まれ、持ち上げられる。逆らっても首が痛いだけなので観念して顔を上げると柳はひどく驚いた表情を見せた。私が素直に従ったことがそんなに意外だったのか。口がぽかんと開いている。ついでに目も開いている。

「泣いて、いなかったのか……」
「泣いてなんかいませんけど?」

「泣いてた方が良かった?」と皮肉たっぷりの言い方をしてしまう。眉間にしわが寄ってるだろうし、目付きは悪いだろうし、口は不機嫌そうにへの字に曲がっているに違いない。かわいくない。本当にかわいくない。これだったら泣いていた方がましに決まっている。

「いや、安心した」

そう言って柳が私の肩に顔を埋めたものだから今度は私が慌てる番だった。彼の髪がさらりと私の頬に触れた。

「先程お前が泣きそうな顔で去っていこうとしたからな。傷つけてしまったのかと思ったんだ」

ふたりして廊下の真ん中にしゃがみ込んで丸くなっている姿は他人が見たらさぞ驚くだろうと思う。柳は背が高いからしゃがんで小さくなっているのは似合わない。

「私が泣いたから何なの」
「そうだな、普段泣かないお前が泣いたとあってはさすがの俺でも焦る」
「泣かなくても焦ってたじゃん」
「半分泣いていたようなものだろう?」

もうほとんどいつもの喋り方だったが柳はまだ顔を上げようとしなかった。ぽんぽんと頭を撫でてみせると彼は小さく頭を動かした。それでも退く気配はない。よっぽど柳の方が泣きそうに見える。なるほど柳には先程までの私はこんな風に見えていたのか。

「……ちょっと嫉妬しただけだよ」

多分あの喉に閊えたような感情は嫉妬だったのだろう。いくら頭で分かっていても心の底では柳が誰か別の女の子に触れているのは嫌だと思っていたのだろう。嫉妬というものがこんな風に自分の感情や行動をコントロール不可能にさせるものだなんて知らなかった。

「なんか勝手に不安になったっていうか」

そう言ったのは小さな声だったのだけれどこの距離でなら当然柳には聞こえてしまっただろう。言ってしまったあとから恥ずかしくなって後悔していると、柳が突然すっくと立ち上がった。そして私の手を掴んだと思うと勢いよく引くものだから私はバランスを崩して柳に倒れかかってしまう。

「や、柳!」
「……好きだ」

ぎゅうと痛いくらいに抱きしめられる。今日の柳はやっぱりいつもと違う。普段の柳だったらこんな強引に手を引いたりしないし、力いっぱい抱きしめたりもしない。

「お前に対してだけだ。俺が冷静でいられなくなるのは」

息が詰まる。ついに呼吸さえも不自由になってしまったのかと思う。まるで体が自分のものでなくなってしまったかのようだ。柳の声が小さく私の頭の上に落ちて脳みそを痺れさせる。

「そして、俺が触れたいと思うのもお前に対してだけだ。気付け」
「……知ってる」

改めて言葉で伝えてもらえて嬉しいと思っているのに素直に言えない。シャツを握った手のひらから全部私の気持ちが伝わればいいのにと思う。抱きしめ返すことも出来ずに中途半端に彼の白いシャツをくしゃくしゃに握っていると柳が小さく息を落とすように、しかし満足そうに笑う音がした。

2012.07.11