昼休み、お弁当も食べ終わり午後の授業が始まる少し前のことだった。私が自分の席に着いて次の授業の準備をしていると不意に「」と後ろから名前を呼ばれた。
「、今少しいいか?」
声に振り向くとクラスメイトの柳くんが立っていた。座っている状態で背の高い彼を見るためには首を目一杯上へ傾けなくてはならなかった。
「何?」
柳くんとはクラスメイトだが特別仲が良いわけではない。私が図書委員をやっているのでたまに昼休みや放課後に図書室で会うくらいだ。カウンター越しに事務的な会話しかしない。たまに柳くんはこんな本を読むんだと勝手な感想を持つことはあったがわざわざそれを口にするほど親しくはない。
「頼みがある」
その柳くんが私に話しかけただけでなく、さらには頼み事をするものだから驚いた。頭の良い柳くんに限って宿題や前の授業のノートを見せてくれというお願いはありえないだろうし、掃除当番を代わってくれというお願いでもないだろう。今週の掃除当番は柳くんがいるグループではなく私のグループが当番だ。
「本を返却しておいてもらえないだろうか」
そう言って柳くんは一冊の本を取り出した。表面にフィルムが貼ってあってひと目で図書室の本だと分かった。表紙を見ても見覚えがない何やら難しそうなタイトルでこんな本が図書室にあったのかとちょっと驚いた。
「今日までが返却期限だったのだが返しそびれてしまってな」
「柳くんが?珍しいこともあるんだね」
私のその言葉に対して柳くんは曖昧に笑った。テニスの練習が忙しくて本を読むどころではなかったのだろうか。図書室の年間貸し出し記録を塗り替えた彼が期限ギリギリまで本を借りていることがあるのかと驚いたくらいだ。一度に何冊か借りたとしても大抵は二、三日後には返しに来る。とにかく読むのが早いのだ。毎日遅くまでテニスの練習をしていて一体どこにそんな時間があるのかいつも不思議に思うくらいだ。
「すまない。本当はこんなことを頼むべきではないと分かっているのだが」
眉を下げる彼の姿を見て、断ることなんて出来なかった。普段何でもひとりで出来てしまうような雰囲気を持っている柳くんが頼むということは本当に困っているのだろう。
「放課後は柳くん部活で忙しいもんね。いいよー」
本来は自分で図書室まで足を運んでもらって返却してもらうのがルールなのだが、まぁ一度くらいならばいいだろうと引き受けた。聞いた話によると柳くんは練習メニューまで考えているというのだから、大会前の今の時期部活には早く行って皆に指示を出さなければならないのだろう。そういえば最近放課後の図書館で彼の姿をあまり見かけない。柳くんがテニス部の練習を頑張っていることは周知の事実である。少しぐらい融通を利かせても罰は当たらないだろう。これもすべて立海の敷地が広いのがいけない。
「ありがとう。助かるよ」
柳くんはそう言って私の手に本を預けた。ずっしりとした紙特有の重みが手に加わる。
「本当はこういうのダメだから内緒ね。他の子に真似されても困るし」
「……そうだな。ふたりだけの秘密だ」
口元がゆるく弧を描いて、彼はまるでいたずらっ子のような笑みを浮かべた。柳くんは真面目でどんな小さいことでもルールを破ったりするようなタイプには思えなかったから、今回のことは意外だった。もっとお堅い人物だと思っていたのだけれど、話してみるとそんなことはない。いたずらを共有するような気持ちで私もちょっと笑って見せる。
「部活、頑張ってね」
私がそう言うと柳くんは一瞬だけ動作を止めた。私が何だろうと疑問に思う前に柳くんはいつも通りの表情に戻っていたからもしかしたら見間違えだったのかもしれない。
「ああ」
それだけ言うと柳くんは自分の席に戻っていった。素っ気ない返事でこれにも少しおかしいなと思った。柳くんと直接喋ったことはあまりないけれども寡黙とはちょっと違うと思っていたからもっと別の反応を期待していたのかもしれない。しかし深く考えようとするとタイミングよく始業のチャイムがなってしまった。バタバタとクラスメイトが席に戻ってくる。
そういえばテニス部は強いと有名だけれどもその練習風景を見たことはない。帰る前にちょこっとだけテニス部の練習を見て見ようかな。そんなことを思いながら私は受け取った本を丁寧に鞄の中に仕舞った。
きっかけ