生徒会室の床に座り込んで模造紙に文字を書き込んでいると不意にインクが掠れた。どんなに押しても掠れた黒しか紙に残らない。先程までもインクが掠れたことがあったが振ったりペン先を押したりすれば復活した。しかし、今回は何度ペン先を紙に押し付けてもインクが出てこなかった。

「インク切れ……」

私が独り言を言うと机で作業していた会計の先輩が顔を上げた。小さな声で言ったつもりだったのだけれど、今生徒会室には私と三年会計の女子の先輩しかいないため、簡単に彼女の耳まで届いてしまったようだった。先輩は持っていたペンを置いたかと思うと私が床に広げていた模造紙の横にしゃがみ込んだ。

「確か水性のマジックペンって今生徒会室にこれしかないんだったよね?」
「はい、そうです。来週には新しいものを買い足してもらえるって話だったと思います」
「そっか。でもこれは今完成させないといけないし職員室に行って先生から一本もらってこよっか」

そう言って先輩が立ち上がってスカートの埃を払うので私は慌てて「先輩、私が行きます!」と言って立ち上がる。生徒会は特別上下関係が厳しいわけではないが、先輩に行かせるわけにはいかない。そもそも、元は私の仕事だ。先輩を使いに走らせるようなことが出来るわけがない。

「そう? じゃあお願いね」と先輩は柔らかく微笑む。私は「任せてください!」と胸を張って生徒会室を出た。

 *

職員室で生徒会顧問の先生にペンのインクが切れてしまったことを伝えるとすぐに黒のペンを二本貸してくれた。ちゃんと返すようにと言われたので適当に「はーい」と返事をする。使い終わったあとインクが残っているかどうかは疑問だからだ。

「失礼しましたー」とやや間延びした挨拶をして職員室をあとにした。入学したてのころは職員室の前を通るだけでもびくびくしていたというのに、生徒会役員になってから先生に許可を取りに行ったり連絡をしに行ったりと訪れる機会が多く、随分と慣れてしまった。

今日は湿度が高いせいか、廊下を歩くと時折上履きのゴムがキュッキュと音を立てる。廊下を歩きながら窓の外を見ると雨粒がガラスを濡らしていた。今日は朝からずっと雨だ。普段外で活動している運動部は校舎内で走り込みをしたり、広い渡り廊下で筋トレをしているらしくいつもより声が大きく聞こえる。

雨の日は好きだ。

運動部に入っている友人は練習場所が限られてしまうから嫌だと言っていた。トレーニングが出来そうな校舎内の場所は運動部で取り合いになるらしい。その話を聞くと雨が降って喜ぶのは悪いなと思うけれども、たまに、本当に時々でいいから雨は降ってほしい。

窮屈そうに走る野球部の団体とすれ違い、階段の前を通ると私の他に足音がひとつ増えた。誰かが上ってくるのかなと思いなんとなくそちらを見るとさらりとした髪が目に入った。

「あ、柳先輩!」
「……か」

階段を登ってくる柳先輩を見つけて声を掛ければ、先輩はすぐに気が付いた。伏せられた目が薄く開いて私を捉える。ドキリと心臓が鳴った。

「ひとりか」
「はい、ちょっと職員室に用事があって。これから生徒会室に戻るところです」
「他の者たちは?」
「生徒会室に何人か残ってますよ。あとは先生のところへ確認に行ったり、倉庫へ備品を取りに行ったりしています」
「そうか、遅くなってすまなかった」
「いえ、部活お疲れさまです」

今日は雨ということもあって、柳先輩は最初テニス部に顔を出したあとは生徒会の仕事をするという話だった。柳先輩は雨の日は高い確率で生徒会の方に顔を出してくださる。

丁度先輩も生徒会室に向かうところだったのだろう。柳先輩が自然と私の隣に並ぶ。並んで歩くと先輩との身長差にドキドキする。柳先輩はとても背が高くて、こうして近づくと男の人なのだと意識させられる。もっとも、身長差がなくたって柳先輩のように素敵な人の隣はドキドキするに決まっている。

「今は何の仕事しているんだ?」
「私は生徒会室に貼る生徒会スローガンを模造紙に書いてます」

毎年生徒会スローガンというものを決めてそれを大きな紙に書いて生徒会室の壁に貼っているのだ。ちなみに今年のスローガンは『温故知新』らしい。四字熟語だしあまりごちゃごちゃした漢字もないので比較的書きやすくはあるのだが、そもそも字を大きく書くということが難しい。すぐにバランスがおかしくなってしまって鉛筆で下書きしたのを何度も書いては消し、書いては消していた。

「柳先輩だったら大きな筆でさらさらーっと書いちゃいそうですね」
「多少書道の心得はあるが、壁に張り出すような大きな紙には書いたことがないな」
「そうなんですか」

ふとそこで会話が途切れてしまった。柳先輩とふたりでいるとどうもそわそわしてしまう。柳先輩はどちらかと言えば静かな方だが、無口というわけではない。生徒会室ではお互い黙って仕事をすることもあるけれども、今は何か話しかけなくてはと思ってしまう。せっかく先輩とふたりなのだから沢山喋りたいと思うのだけれど、いざとなると何を話したらいいのか分からなくなってしまうのだ。生徒会のこと?いや、それはいつでも出来るからいっそクラスでは何をしているのか聞いた方がいいかもしれない。

そんなことをぼんやり考えていると柳先輩が「」と私の名前を呼んだ。

「インクが付いた手で顔を擦っただろう。汚れている」

そう言って先輩は私の鼻の頭を指さす。「えっ、うそ!」確かに途中でインクが手について汚れてしまっていた。そのときの汚れはまだ薄っすらと指先に残っている。しかしすぐに手を洗いに行ったし、そのあいだに鼻の頭に触れた記憶はない。先生だって何も言わなかった。私は今までそんなアホ面で先輩と話していたのかと思うと一気に顔が熱くなった。私が鏡で確認しようと慌てて水道場へ向かおうと方向転換すると私の手を柳先輩が掴む。何事かと驚いて彼の方を見ると柳先輩はくつくつと笑っていた。

「冗談だ」

この瞬間の私は口をぽかんと開けてさぞかし間抜けな表情だったに違いない。この状況を理解するまで優に十秒は掛かった。柳先輩が、冗談……?

「……ひ、ひどいですよ!」
「すまない」

謝りながらもまだ先輩は笑っている。柳先輩が冗談を言うなんて珍しい。それよりも何よりも彼がこんな風に笑うところを初めて見た。軽く微笑んだ表情を見せることはあっても、こらえ切れずに笑うなんてそうそうあるものじゃないのではないか。

「柳先輩が言うから信じました」

私がむくれてみせると柳先輩は「そう怒るな。悪かったと思っている」と再び謝罪してくれたが、まだ口の端はゆるやかに弧を描いていた。

「お前は素直だな」
「からかってますよね?」
「いや、お前のそういうところを好ましく思う」

そう言って柳先輩は私の頭を撫でた。突然のことに私の足は思わず止まってしまった。心臓が突然仕事を思い出したかのように今まで以上に沢山の血を体に送り出している。ドキドキと心臓の音が廊下に響いてしまうんじゃないかと思った。

素直だなという言葉にはすぐに反応出来たくせに、『好ましく思う』という表現は私にとってあまりにも直接的すぎた。別に『お前が好きだ』と言われたわけではないのに、ちょっとでも柳先輩に好意を持ってもらえただけだというのに私の脳みそは簡単に処理速度をオーバーして使い物にならなくなる。

いきなり歩を止めた私を不審に思ったのだろう、柳先輩が「」と私を覗きこむ気配がした。ふわりと空気が動く。私は頭に乗せられたままの手から逃げるように駆け出した。

「柳先輩!ほら、生徒会室着きますよ!今日もお仕事頑張りましょう!」
「……フッ、そうだな」

柳先輩は私の後ろをゆっくりと歩いてついてくる。目的地が一緒なのだから当然のことだけれども、今の私には都合が悪かった。柳先輩に今の顔を見られるわけにはいかない。大股で廊下を歩くとまた上履きがキュッキュと鳴った。

2012.06.26