放課後私はひとり生徒会室で仕事をしていた。二年生の書記である私の仕事は主にプリントの印刷だ。ちょっと間違えれば大量の紙を無駄にしてしまうためミスは許されないが、慣れてしまえば特別な技術を必要としない比較的簡単な仕事である。

窓の外にはもうすでにちかちかと星が出ている。それをぼんやりと見ていると開け放った窓から強い風が吹きこんで、机の上に積み重ねておいたプリントが宙に舞った。生徒会室中に紙が散乱する。またやってしまった。同じ失敗を繰り返さないように窓を閉め、プリントを拾い集めているとガラッと扉が開く音がした。振り返ると入り口に柳先輩が立っていた。

「柳先輩、どうしたんですか? テニス部の練習はもう終わったんですよね? 忘れ物ですか?」
「いや、生徒会室の明かりが点いていたから気になってやってきたんだが」

柳先輩がちょっと眉を下げて言う。きっと柳先輩は部活が終わったあと外から校舎を見て、誰かが生徒会室の電気を消し忘れたと思ってやってきたのだろう。私がここにいることが予想外だったに違いない。いや、柳先輩に限って予想していないなんてことはないだろうから、ここに残っているのが私である可能性が低かったといったところだろうか。

「まだ残っていたのか」

そう言って柳先輩は生徒会室を見渡した。私が使っている机の上には資料やメモ用紙が無造作に積み重ねられている。先程風によって飛ばされた紙や転がったペンが床にも散らばっていて生徒会室はお世辞にも綺麗な状態とは言えなかった。私がちょっと生徒会室に寄っただけではないことはこの部屋を見れば明白だ。

「途中印刷機の調子が悪くなってしまって」

ついつい言い訳がましい言葉を並べてしまう。柳先輩にこれくらいの仕事も出来ないとは思われたくなかった。

「他の生徒会役員はどうした」
「それぞれの仕事が終わったので帰られましたよ」
「お前を残してか」
「私の仕事もあと少しで終わるところだったんですよ。順調にいけばこんなに時間がかかるはずじゃあ……」

本当にほんの一時間前まではあと十五分ほどで終わる予定だった。だから先輩たちには「私が鍵を閉めとくんで大丈夫ですよ」と言ってひとりになったあとすぐに印刷機のインクが切れたり、紙詰まりが起きたりトラブルが相次いだ。ひとりで作業しているときにトラブルが起きると何故か焦ってしまって、いつも以上に手際が悪くなってしまった結果こんな時間になってしまったのだ。

「この印刷機は少々古いからな」

そう言って柳先輩はフォローしてくださる。多分私が気にしていることを察していらっしゃるんだと思う。そうやって気遣ってくださるから私はますます柳先輩を尊敬して、もっとこの人に近づきたいと思ってしまう。生徒会の仕事もきちんとこなし、テニス部でもレギュラーで、頭も良くて、しかも後輩のフォローまで完璧なこの人を、好きにならない人がいるだろうか。

私がそんなことを考えているうちに柳先輩が生徒会室の扉を閉める。てっきり先輩は様子を確認したらすぐに帰るものだと思っていたから驚いた。

「柳先輩?」
「俺もやり残した仕事があったことを思い出した」
「……柳先輩が?」

柳先輩は練習がきついと言われるテニス部に所属しているがそれでも生徒会の仕事はきっちりこなす。字も綺麗で、柳先輩の取った議事録は要点がまとまっていてとても読みやすい。そんな完璧な柳先輩が仕事をやり残すことがあるなんて思えなかった。

「ああ。期限はまだ先だがテニスの練習で時間が取れないことも多いからな」

確認作業ぐらいは早めにやっておかなければならない。そう言って柳先輩が資料ファイルを取り出して目を通し始める。別に今日やらなくてもとは思ったけれど私を気遣ってくれていることはなんとなく察せられたので黙って自分の作業に集中する。とは言っても今はちゃんとプリントが印刷されているか確認するぐらいしかやることはない。「いつも」と柳先輩が言葉を落とすので私は顔を上げる。

「いつも仕事を任せてしまってすまないな」

じわじわと先輩の言葉が染みこんでくるような気がした。柳先輩に感謝されるのは嬉しい。そして少しだけ、恥ずかしい。

「先輩をサポートするのが、二年書記の仕事ですから」
「そうか」
「それにテニス部の練習があるのは理解してます」
「無責任だとは思わないのか?」
「そもそも柳先輩はそんなに私にあれもこれも仕事を押し付けたりしないじゃないですか」

柳先輩はあまり私に仕事を頼まない。たまに仕事を割り振ってくださるときもあるが、それも自分ではどうしても処理しきれない場合だけだ。大抵の仕事は彼自身でこなしてしまう。

「もう少し私を頼ってほしいくらいですよ」

思わず本心をもらしてしまった。いつももっともっと柳先輩に頼られるようになりたいと願っている。柳先輩を、少しでも支えられたらなと思う。柳先輩は再び「そうか」とだけ呟いた。私の考えが先輩に見通されているのかどうかは分からない。柳先輩だったらその膨大に記録されたデータから答えを導き出していてもおかしくないなとは思う。私には先輩の本心は読めない。

やっと表面を刷り終えたプリントを上下に注意しながら裏返しにして再び印刷機にセットする。印刷枚数を入力してスタートボタンを押せば、ガシャンガシャンと印刷機が動き出す。これであとは待つだけで終わりだ。

「終わりそうか?」

いつの間にか柳先輩が私の後ろに来ていた。全く気配がなかったものだから驚いた。先輩は私の後ろから印刷の進行状況を確かめるように機械をのぞき込んでいる。距離が近い。柳先輩は背が高いから顔の距離は近くないが、半歩後ろにぴったりとくっついていて、その距離の近さも私をさらに驚かせる要因だった。先輩がこんなに近くにくるまで気付かなかったのはガシャンガシャンと印刷機がうるさく音を立てるせいだろう。一定のリズムで紙が印刷機に吸い込まれ、反対側から出ていく。

「はい、これが印刷し終われば帰れます」

柳先輩の大きな手が私の頭の上に乗せられ、くしゃりと髪が撫でられる。お疲れさまと口にしないものの労ってくれていることがよく分かる。プリントの最後の一枚が印刷機から飛び出てパサリと軽い音を立てて落ちた。

「ならば俺も帰るとしよう」

時間があるときに仕事をすると言っていたくせに柳先輩はあっさりとファイルを片付け始める。やっぱり私を気遣って付き合ってくださったのだろう。「柳先輩、ありがとうございます」とお礼を言えば「何のことだ?」と先輩はとぼける。いつも何でも見透かした顔をしている先輩がそんな表情をするのは珍しいと同時にどこかかわいく思えて私は「ふふ」と小さく笑いをこぼした。

「ほら、早くしろ」

柳先輩があまりにもやさしい声色で言うので私は慌てて出来上がったばかりのプリントを机の上に並べて置いたあと、高速で自分の荷物をまとめた。その間柳先輩は扉のところに寄りかかって待っていてくれる。最後にファイルを鞄の中に突っ込んでから彼の元へ駆け寄ると、先輩は再び私の頭の上にやさしく手を置いた。触れられた部分がじわじわとあたたかくなった。

窓の外の一番星