委員会の仕事が終わると外はもうオレンジ色に染まっていた。テニスコートの脇を通ると下級生がコート整備をしていた。どうやらテニス部の練習はすでに終わったようだった。よく見てみるとまだ整備は始まったばかりのようだ。三年生は今頃は着替え中だろうか。少し部室前で待ってたら出てくるかな。そんな期待をしながらテニス部部室のドアがよく見える位置に移動する。

丁度良い段差があったのでよいしょと座ってみると足が浮いた。入学当初は少しサイズが大きくてカポカポ鳴らしながら歩いていたローファーだけれども、今では勢いよく足を振っても脱げない。この三年間で成長したなーと嬉しくなる。足をぶらぶらさせて待っていると、ガチャリと部室のドアが開いた。思ったより待たずにすんだので少し拍子抜けしてしまう。

「仁王」

と名前を呼ぶと彼はすぐに振り向いた。仁王の名前をはっきりと呼んだくせに、他のテニス部レギュラーの視線が集まると急に恥ずかしくなった。ちらちらと控えめに手を振って見せると仁王は「お迎えじゃ」と言って他の皆と別れると、すぐに私の元まで寄ってくる。後ろでしばった髪がぴょこぴょこと揺れていた。

「待っとってくれたんか」
「うん、せっかくだから一緒に帰ろうと思って」
「嬉しいのう」

そう言って仁王はにこにこ笑う。こんなに喜んでくれたのだから本当に待っていて良かったなと思う。テニス部は毎日遅くまで練習があって普段は一緒に帰れないのだけれど、たまにならこうして待ってみるのもいいなぁと思う。今日は委員会があったついでだけれども、そうじゃない日も図書館で勉強したり本を読んだり時間を潰して待ってみるのもいいかもしれない。仁王が迷惑じゃなければ、本当にたまにでいいからやってみたいなぁと思う。

校門を出て少しすると仁王が私の手をするりと掴んだ。さり気なく、スマートに手を繋いだと思ったのに何故か仁王はその手をぶんぶんと振ってみせる。意味ない。それをやめたかと思えば今度は爪の形をなぞったり、手のひらをふにふにと触ったり忙しい。手を繋ぐのではなかったのかとちょっとだけ拍子抜けした。

「仁王」
「……」
「ねえねえ、仁王ってば」
「……」

呼びかけているのに仁王は私の手をふにふにといじるのに夢中になっている。いくら夢中になっていると言っても、この距離で私の声が聞こえないはずがないから彼はわざと聞こえないふりをしている。楽しそうに口元が弧を描いているから何か怒って私を無視しているわけでもなさそうだ。仁王の考えていることは私には分からない。

「なんで返事しないの?」
「……なあ、もっと呼んでくれんか」

歩くのと、私の手をふにふにするのをやめて仁王がまっすぐに私を見る。急に動きを止めるものだからもっと深刻なことを言われるものと思ったから肩の力が抜けた。

「『におー』って。ダメかのう」

そうやって不安そうな顔をして言う。突然何を言い出すかと思えば、名前を呼ぶくらいお安い御用である。そもそもさっきまで散々呼んでいたではないか。もしかして黙っていたのはそうすれば私が沢山名前を呼ぶと思ったからだろうか。最初から言えばいくらでも呼ぶのに。

「仁王」
「ん」
「におう」
「もっと」
「におー」
「そうやって呼ばれるの好きじゃあ」

「におー」と再度呼ぶと彼はへにゃへにゃした顔で笑う。テニスをしているときとはまるで別人だ。名前なんていつも呼んでいるのに、仁王はこんなことで喜ぶ。しかも呼んでいるのは下の名前じゃなくて苗字だ。

気になって「『まさはる』じゃなくていいの?」と聞くと彼は横に首を振った。「無理して変えさせようとも思わん」と言う。これは私がなかなか雅治と呼ぶことが出来ないから気を使ってくれているのかもしれない。彼も私のことを名前で呼ぶから本当は私も雅治と呼んだ方がいいかもしれないとは思うのだけれど、仁王と呼ぶことに慣れすぎてしまって今更なかなか変えられない。当の本人は「今はこれがええんじゃ」と言って私の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「『におー』って呼ぶとき笑うの、気付いとらんか」

「いっつも笑っとる」と彼は言うけれども、今まで特に意識したことはなかった。確かに彼といるときは楽しいし嬉しいから頬がゆるんでしまうとは思う。けれども仁王はそうではないと言う。試しに『に、おー』とゆっくり発音してみた。すると確かに『に』のときに笑ったようになるかもしれない。写真を撮るときによくやる『いち足すいちはー?にー!』の原理である。つまり誰でも彼を呼ぶときは笑顔のような表情になるということだ。決して私が仁王を呼ぶときにだらしない表情をしていたわけではないと信じたい。

「それと、目もやさしいもんになる」

そう言って彼は目を細める。それを言うなら仁王だって私といるときによくそういう顔見せるくせに、と言おうとしてやめた。仁王がそういう顔をする理由がもしも私と一緒だったら恥ずかしいから。

「多分そっちは『まさはる』って呼んでも一緒だと思うよ」
「じゃあ試しに呼んでみんしゃい」
「……まさ、はる」
「おお、本当じゃ!」

あまりにもわざとらしく言うものだから思わず笑ってしまった。私が彼を呼ぶ声も緊張でぎこちないものだったからバランスが取れたのかもしれない。仁王も私につられて笑う。

「でもやっぱり『におー』の方がしっくりくるぜよ」
「そんなこと言ってると彼女なのにいつまで経っても仁王って呼ぶかもよ」
が自然と俺んこと名前で呼びたくなるまで待つ」

いつもは全然本心が読めないのにこういうときだけはきちんと本気だと分かるように言う。そういう風に私のペースに合わせて歩み寄ってくれるところになんだかきゅんとしてしまって、なんだかすごく仁王に甘やかされている気分になる。顔にどんどん熱が集まっていって、逃げ出したいような気持ちになるのだけれど、未だ仁王に手を握られているので叶わない。

「それまでお前さんにはいーっぱい『におー』って呼んでもらうんじゃ。飽きるほどにのう」

「飽きるの?」と聞くと、彼は急に大真面目な顔をして「飽きない」と言うものだから私はまた笑う。私がぎゅっと仁王の手を握ったのを合図にまた歩き出す。

下の名前で呼んだり一緒に帰ったり今はまだ特別なことで、その度に心臓が口から出そうなほど緊張してしまう。けれども、ちょっとずつちょっとずつこの特別が日常になればいいなとは思う。こうしてちょっとずつ彼の隣を歩くことが当たり前になればいいなあ。

2012.06.15