私にとって前回の席替えで白石くんの隣の席になれたことはとてもとても幸運なことだった。

授業中、頬杖をついてちょっと横を向く。不自然にならないように気を付けてちらりと隣の席を盗み見る。白石くんの隣、しかも一番後ろの席になれたのは本当に女神様が私に微笑んでくれたとしか思えない。他人の目を気にせずちらちらと白石くんを盗み見ることが出来る。白石くんはモテるし誰が見てもかっこいい人気者なので女の子なら誰だってちらちら見てしまっても仕方がないとは思うが、それでもそうやって私が彼を見ていることを誰かに知られることはちょっと恥ずかしかったから、後ろに誰もいないことはとても好都合だった。

「で、ここにこれを代入して―――」

数学教師が例題を解説しながら黒板に数式を次々と書いていく。白石くんは真面目な顔をしてそれをせっせとノートを取っていた。白石くんは化学の授業が得意だと聞いたことがあるけれども、何でも彼は完璧を信条としているらしいからこの数学の授業のノートだって先生の板書したことはもらさず書いてある見やすい完璧なノートなのだろう。それに引き替え、私のノートには写しきれずに空白になっている部分が沢山ある。順番に黒板に書いていってくれたらいいのに、この先生はそうはしないで直前に書いたところを消して続きを書いたりする。だからちょっとボーッとしているとすぐにノートを取りそびれてしまうのだ。こういうときせっかく隣の席なのだから授業終わったらすぐ白石くんに声を掛けてノートを借りたらいいと思うのだけれど、勇気がなくて結局毎回友人にノートを借りている。この席になってから友人にノートを借りる回数が一層増えたことは言うまでもない。

ふわりとカーテンが大きく揺れて窓から風が教室に入り込む。開いていた教科書のページがめくられてぱらぱらと軽い音を立てる。それまでシャーペンを走らせていた彼の手が止まって、風で揺れた髪を押さえた。そのまま彼は横髪を耳に掛ける。それまで髪に隠れて見えなかった彼の目元が見えるようになって、私の心臓がドキリと跳ねた。白石くんの顔は整いすぎていて心臓に悪い。

ふと白石くんが視線を上げる気配がして、私は慌てて前を向いた。

黒板を見るといつの間にか新しい問題の解説に移っていた。私のノートはその前の問題、下手したらさらにその前の問題で止まっている。どれくらい進んだのか分からないのでとりあえずその下を空白にして次のページから続きを書き始める。思わず黒板の端に書いてある文字から写し始めたけれども、またいつ消されるか分かったものではない。先生はその間も黒板に数字を書き続けていて、もう少しでいっぱいになってしまう。そうしたら次に消されるのは今私がまさにノートに写している部分だ。

急いで書かなければならない。けれどもそういうときに限って書き間違いをする。焦って取ろうとした消しゴムは標準が少しずれて指先に当たり机の上から転げ落ちていった。トン、トンと消しゴムが小さく床を跳ねる。しかしケースに入っていたこともあって大して転がることなく右手の床の上ですぐに止まった。遠くに転がっていかなくて良かったと安心したが、その間にも先生は黒板を埋めていっていた。せめて一番左の数式だけは写しておきたい。

そんなことを考えながら消しゴムを拾うために伸ばした指先が消しゴム以外の何かに触れた。視線を落とすと私の指の先には人の手があった。白石くんの、手だ。

「あっ」

慌てて手を引っ込める。思わず声を出してしまいそうになったけれど、授業中だったことを思い出して慌てて飲み込んだ。つい手を引っ込めてしまったのは感じが悪かったかなと思ったのだけれど、彼は全く気にしていないようだった。

「落としたで」

白石くんが周りには聞こえないような小声でそう言って消しゴムを差し出すので、私は促されるままに右手を出した。手のひらにころんと消しゴムが落ちる。「次の例題は―――」と授業を続ける教師の声が遠くに聞こえた。

「あ、ありがとう」

拾ってもらった消しゴムをきゅっと握る。それまでただの小さな消しゴムだったものが白石くんに拾ってもらったというだけで突然特別なものになってしまった。

隣の席の人がちょっと落とした消しゴムをすかさず拾ってくれるなんて白石くんはやっぱりやさしい。消しゴムを握った手を見つめながらそう思う。拾ってもらっただけじゃなくて、短いものだけれども白石くんと言葉を交わしてしまった。隣の席というものはなんてラッキーなことなんだろう。今まで何度話しかけようと思っても勇気が出なかったのに、偶然話すことが出来た。手も触れてしまった。しかも授業が終わったらこのことのお礼をもう一度ちゃんと言うという名目で声を掛けるきっかけも出来た。話しかけても、いいだろうか。そんなことを考えて、思わずへにゃりと頬が緩んでしまった。

「かわええやっちゃなぁ」

ぽとりと落とすように聞こえた言葉に私は驚いて顔を上げた。もうすっかり前を向いてノートを取っていると思っていた白石くんはまだこちらを見ていた。彼は相変わらずにこにこと表情を崩さないままだった。けれどもやさしく細められた瞳はしっかりと私を見ている。きっと白石くんにとってこのかわいいは深い意味なんてないに違いない。あまりにも挙動不審な私の姿を見て、面白いに近いニュアンスでかわいいと表現したに違いない。分かっているのに、私の顔はかっかと熱を持った。その顔を見たのか、白石くんがくすりと笑う声が聞こえた。また心臓がドキドキと騒ぐ。

ここが他の誰にも見られない一番後ろの席で良かったと心の底から思った。

2012.06.03