「アンリ!」

裏庭の端、いつもの定位置にちょこんと座る影に向かって声を掛けると、その人物は被っていたフードを外して顔を上げた。駆け寄れば彼が顔を上げ、「」と私の名前を小さく口にする。

「やっと来てくれたのね! 待ってたのよ!」

そう弾む気持ちを隠せずに言いながら、いつものように彼の隣に腰掛ける。足元にある鉢に植えられた花たちが風に揺れて小さな音を立てる。

私と年の近い彼はたまにふらりとここにやってくる男の子だった。アンリが家の裏でしゃがみ込んでいたのを、ちょうどお使いに出るところだった私が見つけたのが出会いだった。それ以来、彼とお喋りするのが私の密かな楽しみだった。今日だってずっとアンリが来てくれるのを待っていたのだ。

「もうすぐお城で戴冠式があるでしょう? そこにうちのお花も使われることになったのよ!」
「そう。良かったね」

うちの花屋は城に出入りしている業者ではないのだけれど、この国が復興して初めての式典でいつも城に納めている花屋だけでは数が足りないということでうちまで話が回ってきたのだと両親が言っていた。式典中、城のどこかにうちの花が飾られるのだと思うとひどく誇らしかった。

「王様はこの国を救ってくださってからずっと王様なのに、今さら式典をするなんて何だかおかしな感じがするけれども」

隣国の支配から解き放たれてもう一年以上経つ。国を立て直し、町を復興し、少しずつ人が戻ってきて、そうして穏やかな日々が流れるようになったのは王様のおかげなのだと誰もが思っている。

「お祭りなんて生まれて初めて! お母さんとお父さんから話を聞いていたけれど、それが現実になるなんて!」

両親から聞いた“お祭り”の話はひどく心躍るものだった。人々が歌ったり、踊ったり、おいしいものを食べたりして、一日を過ごすのだそうだ。子どもは夜更かしをしても許されるし、お小遣いをもらって何でも好きなものを買ってもいいらしい。

「町でも盛大に祝うように王様からのお達しなんですって」

特に今回は特別なお祭りになるのだと言う。王様から直々に出されたそのお達しは瞬く間に町中に広がって、お祭りの日はまだ先だというのに、皆浮足立っている。あれを用意しなくてはこれもやらなくてはと、その日に向けてもう支度を始めている。

「花をそこら中に飾り付けてお祝いするの。花飾りを作ったり、これから準備に大忙しになるわ。ねえ、アンリもうちの花たちが町を彩る様を見に来てね」

家の壁に蔦に絡ませた花々をつるして、二階の窓からは花びらを降らせて、そうして町中を花でいっぱいにして豊穣を祈る。その光景はどんなに綺麗だろう。

花を降らす仕草を真似るようにぱっと両手を広げると、アンリの視線が私の指先を追う。

「嬉しそうだね」
「当然よ!」

これほど嬉しくて、わくわくすることが他にあるだろうか。

「この間アンリにお祭りの話をしたから神様が聞いていてくださったのかしら。それとも王様? なんてね」

「ふふ」と自然と口から笑い声が漏れてしまう。そう勘違いしてしまいそうなほどのタイミングだったのだ。口にすれば願いが叶うと勘違いしてしまいそうなほどの。

まるでずっと夢を見ているかのような気分だった。

「お祭りは三日間続くのだけれど、戴冠式当日は一般市民もお城の中に入れるのですって。広場で王様が私たちに姿を見せてくださるのよ。きっと人がいっぱいで遠目になるでしょうけど、私ももしかしたら王様の姿を見れるかもしれないわ」

興奮して話してしまったけれども、城に出入りしているというアンリはもうとっくに知った話だったかもしれない。しかし、アンリは時折ちらりとこちらを見るだけで、きちんと話を聞いているそぶりだった。

「アンリも城に出入りしていると言っても王様の姿は見たことないんでしょう?」

同じ城と言っても王様がいるのはお城のずっと奥のはずだ。

「どんな方なのかしら。この国を救ってくださった方ですもの、きっと気品があって素敵な人に違いないわ」

王様は若い人だと聞く。この国を取り戻すときに戦いに加わってくださった王様は、先代の王の甥に当たる方なのだそうだ。まだその姿を見たことのない私にとっては、想像ばかりが膨らんでいく。

「どうかな。かつて国が滅んだときの記憶がないらしいし、どこで育てられたかも知れないし、野蛮な男かもよ」
「でも勇気のある人には違いないわ」
「どうだか」

そう言うアンリの声は何故だか沈んでいる。横を見ると、所在なげに足をぷらぷらさせている彼は、私が次の言葉を待ってもなかなか顔を上げなかった。

でもこれは事実だ。

「こんな素晴らしいお祭りを開いてくださる王様ですもの、絶対に素敵な人よ」

国民に自分がこの国の王であることを示すだけなら戴冠式さえ行えば良いのだ。けれども、こうして祭りを行うのはきっと王様の御心なのだ。私たちが笑顔になれるようにと。そうやって民のことを考えてくれる王様が悪い人であるはずがないのだ。

「アンリ?」
「あーあ! 国民全員がみたいに単純だったらいいのに!」
「なに、その言い方!」

実際にアンリは私よりもずっと頭が良い。どこから来たのか、この町のことを知らないこともあるけれど、大抵は私よりも沢山の物事を知っている。それに比べ、もうお祭りのことでいっぱいになってしまっている私はきっと単純なのだろう。

「でも町の誰もが楽しみにしてる。私もお店の手伝いを沢山して、町を綺麗な花でいっぱいにして、絶対お祭りを成功させてみせるわ」

だからアンリも楽しみにしていて。

そう言って彼の顔を覗き込む。私の視線から逃れるように彼が顔を背けて俯く。彼の背けた先の耳の端がほんの少しだけ赤い。彼の視線の向こうには私の育てた鉢植えがいくつか蕾を開かせていた。

「ありがと」

彼の唇が小さく言葉を紡ぐ。その言葉に私はふふとまた抑えきれない笑みを溢すのだった。

2018.08.30