――危ない、転ぶ!

そう思ったときには遅かった。何ともないただの階段だというのに、何故だかその階段のゴムの滑り止めに足先を引っ掛けてしまった。しかも下っているときに。危ないと思ったときにはもう重心が前にいっていて、せめてそのまま顔から転ばないようにと手を前に出すので精一杯だった。残りの段数も少なかったのも幸いだった。少し階段を滑り落ちただけで、すぐに一番下の廊下にべちゃりと着地した。

誰もいない廊下で良かった。そう思っていたのに、上から声が降ってきたものだから驚いて飛び上がってしまった。

「大丈夫?」

綺麗な髪が陽の光に透けている。人に見られたというだけでも恥ずかしいのに、その声に、シルエットには覚えがあった。

「たたた辰己くん……!」
「結構派手にいったね?」

そう言って辰己くんが私の前にしゃがみ込む。私はすぐさま無様に床に張り付いていた体を起こして、その場に正座した。こんなところを見られるなんて最悪だ。しかも片思いの相手に見られるなんて。きっと鈍くさい女だと思われたに違いない。今さら遅いかもしれないけれどスカートを直してなるべく小さく座り込む。

「手、擦りむいてる」

痛そうと小さく呟きながら私の手を取ってそれを検める。咄嗟に手をついたので手のひらの皮が剥けているけれどもコンクリートでなかったので血は出ていない。それでも辰己くんが手のひらをひっくり返したり元に戻したり他に怪我はないか確かめるものだから、大した怪我ではないくせに赤くなった手のひらが熱を持ったようにじくじくと痺れた。

「足は?」
「足は! 大丈夫! 本当痛くないし!」

満足するまで私の手を確かめた辰己くんが次に矛先を向けたのは足だった。あれだけ派手に階段で転べば当然足も打ってるに決まっているけれど、辰己くんに汚い足を見られるわけにはいかない。勢いよくぶつけたので脛にいくつか痣が出来ているだろう。けれど、きっとそれだけだ。

「……そっか。立てる?」

そう言って辰己くんは膝の埃を払って立ち上がる。それに私も続こうとしたのだけれど、右足に体重を掛けようとした瞬間、ズキリと足首の辺りが強い痛みを訴えた。落ちる瞬間そんな感覚は感じなかったし、足のあちこちがズキズキと痛みを持っているから気付かなかったのだけれど。

「やっぱり足捻ってるね」

そう言って眉を下げ、辰己くんの方が悲しそうな顔をするのだ。彼が視線を落とすのにつられて、自分の足を確認してみると打撲の内出血はあるものの、膝を擦りむいて血がダラダラ出ているだとか、靴下の上からでも分かるほど足首が腫れているとかではなくて少しだけ安心した。右足首も体重を掛けなければ大丈夫そうだと今度こそそっと立ち上がる。

「よいしょ」

ちゃんと両足で立つつもりだったのに、辰己くんの掛け声とともに両方とも床からふわりと離れてしまった。何が起ころうとしているのか理解したのは一瞬遅れてからだった。

「辰己くん待って!」

そう言ったのに辰己くんはそのまま私を横抱きにしてしまう。辰己くんがそんなことをするだなんて考えもしなかった。動揺して思わず身を捩ればより強い力でグッと抱え直されてしまう。

「自分で歩けるから! 辰己くんこんなことしなくても平気だから!」
「俺だって男だからこれくらい何ともないよ」
「絶対重いから!」
「羽根のように軽いよ?」

さすがにそれは嘘だ。人間一人分が軽いわけない。ひょこひょこ歩きになるとはいえ、歩けないわけではないのに「暴れると危ないから大人しくして」と彼は私を下ろす気が全くないらしい。

「あっ」
「辰己くん?」
「おでこも擦りむいてる」

急に辰己くんの顔が近づいてきて、私は思わず顔を手で覆った。そんなところぶつけた記憶もなかったのだけれど、指で触ると少しだけひりひりした。きっと大したことはないけれど、ぶつけた額はほんの少しだけ赤くなっているのだろう。

「真っ赤だよ」

辰己くんのやわらかい声が落ちてくる。手で顔を覆って視界を塞いでしまった私には今辰己くんがどんな表情をしているのかは分からない。それを見てみたい気もしたけれども、この手を外してしまったらまた彼の近さにくらくらと目が眩んでしまうに決まってるのだ。

2017.06.19