突然、女性が空から降ってきた。
「わっ!」
「ぶっ!」
やわらかいものが上に乗っている。それが大人の女性だと申渡が気が付くまで少し時間が掛かった。
公園で自主練をしていた申渡の上に突如降ってきたその女性は額を打ったのか、頭を抱えたまま動かない。
「あの、大丈夫ですか……?」
「いたた……だいじょうぶ、です……」
そう言って顔を上げた彼女とかちりと視線が合った瞬間、数センチしか離れていない距離で彼女は驚いたように目を丸くさせてぴたりと動きを止めた。
色づいた唇、瞼はキラキラと光っている。
――それは自分が密かに想いを寄せる女の子によく似た顔だった。
「えいごくん」
彼女の口から零れ出たのは間違いなく自分の名前で。
よく知っている声。しかし聞きなれない呼び名に、今度は申渡が目を丸くさせる番だった。
「ごごごごめん……! 重かったよね? 怪我とかしてない!?」
「いえ、何ともありません。そちらこそ怪我などはありませんか?」
彼女が上から勢いよく飛び退いたのでゆっくり立ち上がる。制服についた埃を払いながら体の様子を確認してみたが、どこか痛めただとかはなさそうだった。
ベンチに座り直して、空から降ってきたその女性にも椅子を勧めると、彼女はちょこんと隣に座った。
ふと視線を感じて顔を上げると、彼女がじっとこちらを見ていた。明らかに化粧をしている顔、の趣味よりもずっと大人びたOL風の服装、どこか落ち着いて聞こえる声。どう考えても目の前にいる彼女は、を十年大人にしたようにしか見えなかった。
彼女の方も状況が飲み込めていないのか、ひどく真剣な表情で考え込んでいる。かわいいと思うことの方が多いとは印象が違って、思わずドキリと申渡の心臓が鳴った。
「夢じゃなかった……?」
それを言うのなら逆なのでは?
今の状況を夢だと思うのなら分かる。空から人が降ってきて、しかもそれが見慣れた少女の、しかし記憶にある姿よりもずっと大人びた顔をしているのだから、夢だと言われた方がまだ納得が出来た。
けれども体を打ったときの痛みはリアルで、決してひどく痛みはしなかったがこれが夢だとは思えなかった。吹く風も、木々がかすかに立てる音も、いつも感じるものと何一つ変わらない。
に姉はいただろうかと申渡は記憶を辿るが、目の前の彼女のこちらをこっそりと伺うその仕草はひどく見覚えがあった。姉妹だとして、そこまで似ることがあるだろうか。
「さん?」
確かめるようにいつものように苗字ではなくあえて名前で呼んでみれば、彼女はぎくりと体を震わす。その様子からも何となく、本人なのだろうなという確信があった。
「えっと、さわたりくんには信じられないことかもしれないけど、私は未来から来たみたいで、つまりタイムスリップみたいな――」
だから、彼女がとても信じられないような突拍子のないことを言い出したときも、申渡はそういうこともあるだろうなとぼんやり思っただけだった。
「そうですか」
「あのね、信じられないかもしれないけど――って、信じてくれるの?」
「きみの言うことですから」
申渡がすんなりと頷けば、彼女は驚いたように目を丸くさせた。
未来からタイムスリップしたのだとしたら、随分と大人びた容姿も納得が行く。空から降ってくることもあるだろう。
何がどういう原理でタイムスリップが起こったかなど好奇心が刺激される点は多々あったが、当事者である彼女に説明出来ることはきっとそんなに多くないだろう。
「それよりも他に質問したいことがあるのですが」
「なぁに?」
改めて向き合い、ずいと迫った申渡に、彼女は首を傾げてみせる。
「私は未来でも、あなたのそばにいるのでしょうか?」
その言葉に彼女がぎくりと体を強張らせるのを申渡は見逃しはしなかった。
「……どうして?」
「あなたが最初に私を『栄吾くん』と呼んだので」
彼女の時間では十年ほど時が経っていそうだが、彼女は申渡の姿を見てすぐに誰だか判断出来たようだった。それはつまり未来でも彼女とは付き合いがあるということだろう。そうでなければ忘れているか、思い出すのにもう少し時間がかかるはずだ。
下の名前で呼び合うほどに親しい仲になっているのだと、期待するなという方が無理だろう。
「この先あなたが私を名前で呼ぶような関係になるということでは?」
「そうだとしても、もう別れているかも。年月が経ち過ぎて思い出になってるだけかもしれないよ……?」
「私はこの気持ちが数年で色褪せるとはとても思えません」
今はまだ片想いをしているのだからそう思えるのだろうと、そう言われればそれまでなのだろうけれど。
「もしあなたの気持ちがこちらへ向いていないなら、私はきっとアタックし続けているはずです」
「大人には色々あるよ?」
そう言って彼女は揺さぶりをかける。すぐに肯定しないところをみるとタイムパラドクスを気にかけているのか、それとも素直に言いたくない事情があるのか。でも彼女の中に申渡栄吾に対する嫌悪感は見られなかった。
「ですが、あなたの言動を見る限り私にとってそれほど悪い未来ではないようなので」
きみは器用な人ではないですから。そう言うと彼女は悔しそうに口を一文字に結ぶ。
「……さあ、どうでしょう?」
「きみは大人になって少し意地悪になりましたね……」
「大人らしく思慮深くなったと言ってほしいな」
そう言って彼女が視線を逸らす。こういうところも変わらない。ひとつ、またひとつと自分の知っているとの共通点を見つける度に申渡の心の奥底が、ぽっと小さな灯をつけたように温まった。
「すみません、困らせてしまいましたね。余計なことを聞いて未来が変わってしまってもいけません」
そもそも今のに想いを伝えてもいないのに、答えを聞くのは反則かもしれないと思い直す。
でも、出来ることならばそれは自分にとっても、そしてにとっても良い未来であってほしい。そんなふうに思いながら申渡は彼女の瞳を見つめ返した。すると彼女がふと遠くを見るように目を細める。
「栄吾くんに会いたいなぁ」
「すぐに会いに行きますよ」
目の前にいるのにこういうことを言うのはなんだかおかしな心地がした。彼女の言う『栄吾くん』が、今目の前にいる自分を指していることでないのは分かっていた。けれども、言わずにはいられなかった。
未来の自分のことは知りはしないが、それでも彼女の言葉を聞けばきっと飛んでいくだろうという確信があった。
「ふふ、ありがとう」
彼女がなんだか泣きそうな表情で笑う。それでも申渡は彼女を笑顔に出来たことが誇らしい気持ちだった。大人になっても今と変わらずかわいらしい人だと思う。そう思った瞬間、体が勝手に動いていた。
「あの……えいごくん、手……」
「すみません、つい!」
パッと手を離してしまってから、彼女の顔を見て失敗だったと思った。こんなとき未来の自分だったら正解をきちんと選べたのだろうか。けれども今の自分には彼女の許可を得ないまま触れるなんてこと、出来そうになかった。
そんな風に慌てる申渡の姿に彼女はふふと小さく笑みを落とす。ふわりと目を細めるその顔に、申渡は柄にもなく心臓が暴れるのを自覚する。それを誤魔化すようにパッと立ち上がった。
「冷えてきましたね。何か温かい飲み物を買ってきます」
触れた彼女の手が冷たかった。そこまで気温は低くないが風が吹くと肌寒い。
自販機は運良く数メートル先にあった。ポケットから財布を取り出しての好きなホットミルクティーと温かい緑茶を手早く買い、彼女の元へ戻る。
そう時間が掛かるものではなく、ほんの数分外しただけのはずだった。
「お待たせしまし、た……」
思わず声が途切れた。戻ると、ベンチの上で見慣れた制服姿が丸くなっていた。大人の彼女ではなく、今の、よく知っているの姿だ。
規則正しく胸が上下しているので、きっと眠っているだけだろう。
「さん」
呼びかけて肩を揺すってみても反応がない。
早く起きてはくれないかともう一度肩を軽く叩いて見るけれども彼女は少し身じろぎするばかり。
「起きてください」
乱れた彼女の髪を梳くように触れながら、すぅすぅと心地良さそうな寝息を立てる彼女に、もうしばらく返事は返ってこないだろうなと思いながらも呼びかける。
「さん」
いつ言おうかと、ずっとタイミングを図っていた。もっと自分のことを知ってもらってから。きちんと用意した場所で、雰囲気を作ってから。そう思っていたのに、もし今彼女が目覚めたのならこの胸に溢れる衝動のまま口にしてしまいそうだった。
はやく、きみに伝えたいことがある。
2020.11.28