ずるり。
足元が滑る感覚がして、気が付けば私は地面に座り込んでいた。いつから降りだしたのか、しとしとと落ちてくる雨粒が制服に染み込む。足に触れる濡れたアスファルトが冷たかった。
「?」
名前を呼ばれて顔を上げる。空には重たい雲が広がり、夜の闇の色に染まっていた。暗くて見えづらかったけれど、見覚えのある顔が心配そうな表情でこちらを見下ろしている。
「……申渡くん?」
そう名前を呼んでみたものの、どこか違和感があった。瞬きをしてみてもそれは変わらない。
先ほどまで私は青空の下、彼の隣を歩いていたのだ。密かに片思いしている申渡くんとふたりきりであることに、どうしようもなく浮かれていて。降り注ぐ日差しはあたたかくて、ずっとこの時間が続けばいいのにと思っていたはずだった。
しかし、今目の前にいる申渡くんは私の知っている彼より凛々しく、大人っぽい顔付きに見える。――やはり、何かがおかしい。
「これは、一体……」
そう言いながら彼は傘を私の上に傾けた。彼の方も思うところがあるのか、戸惑いの表情だった。彼の着るスーツに雨粒が染みていく。
「早着替え、というわけではないようですね」
そう言って申渡くんが私の頬に手を添えて顔を上へ向けさせるものだから、私は何とか悲鳴を飲み込むので精一杯だった。
何てことのないように触れた手のひらと至近距離にある顔に、息が出来なくなる。
私の知っている申渡くんはこんな風に触れたりはしない、はずだ。
「顔も幼い。これは……」
観察するようにじっと見つめられ、思わず視線を逸らす。
私が幼いのではなくて申渡くんが老けたのだと思ったけれども、それを実際に口に出すことは出来なかった。
「私の感覚では、短い悲鳴が聞こえて振り返ると、制服姿のきみが地面に座り込んでいたのですが……。きみはここに来るまでの記憶はありますか?」
「……ない、です」
一瞬前までは雨なんて降っていなかった。周りを見渡せば全く覚えのない住宅街だ。
目の前にいる申渡くんが大人になっているように見えること、一瞬で日が暮れ、見知らぬ土地にいること、どれもおかしなことだらけだった。
「……タイムスリップ」と彼が小さく呟く。
「本当に申渡くん?」
「はい。きみの知っている私とは少々違うかもしれませんが」
そう言って彼が目を細める。その表情は私の知っている申渡くんと同じだった。
「立てますか? すぐそこですから、ひとまず私の家へ」
そう言って彼が私の腕を取って引っ張り上げる。地面の水を吸ったスカートが重い。
彼は自然に私の肩に手を回して引き寄せる。もうとっくに全身濡れてしまっているのに、彼はこれ以上私の肩が濡れないように気を遣ってくれていた。傘はほとんど私の方へ傾けられていた。
まだぼーっとする頭で彼に促されるままについていく。時折足元がふらつく私を、彼は半分抱えるようにして歩いた。
それどころではないのに、彼の手のひらの熱にまたくらりと目眩がしそうだった。
*
すぐそこ、という彼の言葉は本当だったようで、五分も歩かないうちに一棟のマンションに着いた。
促されるままにエントランスを通り抜け、エレベーターに乗り、部屋の扉の前まで来たところで、ようやく彼についてきてしまって本当に良かったのかということに気が付いた。
彼に迷惑をかけてしまうのではないか。
「どうぞ」
彼がスイッチを押すと明るくなって部屋の中がよく見えた。
玄関で急に足が棒になってしまったかのように動かなくなった私を置いて、彼は先に部屋に入っていって暖房をつける。
彼の背中越しに見えた部屋は綺麗に整理され、すっきりとしていて申渡くんらしかった。
「冷えてしまったでしょう」
そう言って彼は私にタオルを手渡すと、そのまま手を引いて部屋の中へ引き入れた。
ころんと脱いだ靴が転がる。お行儀が悪いと思ったけれども、彼は私に靴を整える時間を与えてはくれなかった。
「シャワーを浴びて、とりあえずそれに着替えてください」
そう言って彼から手渡されたのは女性物の部屋着だった。何故こんなものが彼の部屋にあるのか。
「えっと、これは……」
「こちらの方が抵抗が少ないかと思ったのですが、私の服の方が良かったですか?」
それはそれで困る。仮にも申渡くんの服なんて着れる気がしない。そうじゃない、そうじゃなくて――
「これで大丈夫です……」
この気まずさをどうやって伝えれば良いか分からなくてそのまま服を受け取ってしまった。全然、大丈夫じゃないのに。
「風呂場にあるものは自由に使ってください」
それだけ言い残して彼は出て行った。彼の足音が遠のいて、部屋の扉がパタンと閉まる音を聞いてから私はふぅと深い溜息を吐いた。
濡れて張り付く制服を手早く脱いで、浴室に逃げ込むように入る。蛇口をひねるとすぐにあたたかいお湯が降ってくる。
――彼の部屋に女性の物が置いてある意味なんてひとつしかない。
「そりゃ彼女いるよね……」
勝手に落ち込んでしまう。私の独り言はシャワーの音に紛れて立ち消えた。
申渡くんほど素敵な人が大人になっても彼女がいないなんてこと、あるはずがないのだ。少し考えれば分かることのはずなのに、ショックを受けている自分がいた。
しかし、それにしてもその彼女のものを勝手に人に貸してしまうのはいかがなものか。少しデリカシーがないのではないかと思ってしまう。その彼女に対しても、私に対しても。……それとも申渡くんの彼女はそんなことを気にしないおおらかな性格の女性なのだろうか。
「も〜〜!」
本当はこんなことを考えている場合ではなく、もっと他にも考えるべきことはあるはずだ。分かっているのに、私の頭の中ときたら彼女はどんな人なのかとか、いつから付き合っている人なのかとか、もしかして私の知っている人なのかとか、いくら追い出してもそんなことばかり考えてしまっていた。
ザーっと頭上から降り注ぐお湯は冷えた私の体をあたためたけれど、なんだか胸の奥はどこかひんやりとして重かった。
*
「ありがとうございました……その、さわたりさん……」
湯から上がると彼は部屋で本を読んでくつろいでいた。
彼を何と呼んだら良いか分からずに、口の中で名前を転がす。良く知っている人物なのに違う人、というのはおかしな気分だった。
声に振り返った彼は私の姿を見て満足そうに頷く。
借りたパジャマはサイズもぴったりで、肌触りも良い。けれども他人のものを勝手に借りているせいか落ち着かない。
「きちんと温まりましたか? 風邪を引いては大変です」
そう言って彼が私の手を引くものだから、私はまた短い悲鳴を上げそうになってしまった。
申渡くんと顔が同じものだから、たちが悪い。
「ほら、こっちへ来て。まだ髪が濡れていますよ」
彼はそう言うが、もうほとんど乾いている。ポタポタと床を濡らすわけにはいかないと、いつもより念入りにタオルドライしたのだ。
それに、改めて彼とどういう風に顔を合わせたら良いか分からなくて時間稼ぎしたのもある。
「だ、大丈夫ですから……!」
「駄目ですよ」
逃げるように数歩後ずさったのに、私の手首を掴んだままの彼の手がそれ以上を許さなかった。やや強引に手を引いて、私を足の間に座らせる。
「いい子です」
なんだか子ども扱いされている気がする。事実、彼からしたら私は子どもそのものに違いないのだろうけれど。なんだか面白くなくて押し黙ると「ふふ」と小さな彼の笑い声が落ちてくる。
彼の指が私の髪に触れる度に心臓がひどく鳴る。
ゴーゴーとドライヤーの音がうるさいのが救いだった。
「乾きました」
丁寧に乾かされた髪は指通りも良く、ふわりと軽い。いつの間にかヘアオイルも付けられたのか、なんだかいい匂いまでする。
「ありがとうございます……」
頭を下げると自分の髪がふわりと香る。まるで自分でないみたいだった。
落ちた髪を耳に掛けながら顔を上げると、彼とぱちりと目が合う。彼の右手が私の頬に触れる。あまりにも自然な仕草に、私は少しも動くことが出来なかった。
直立の姿勢をとって、ぱくぱくと言葉にならない声を上げることしか出来ない。
同じ頬に当てられているのに、先ほど外で私の顔を確認したときとは違う触れ方。
「かわいいですね」
そう言って彼が目を細める。
「真っ赤だ」
「もう! からかわないでください!」
そう言いながらも、さらに自分の頬が熱くなっていくのが分かる。私が手を振り払っても、彼は笑ったままだ。
私の知っている申渡くんはこんなことしないのに、と思う。――それとも申渡くんもこんな風に私に触れてくることがあるのだろうか?
「ホットミルクも飲みますか? 落ち着きますよ」
絶対にからかわれていると思うのに、それに対して全然平静でいることが出来ない。ペタペタと両手で自分の頬に触れて冷まそうとしてみたけれど、効果は全くない。
私がこんなにも振り回されているのに、彼の方は全く普段通りというのもなんだか悔しい。
「飲み、ます……」
今の申渡くんからしてみたらきっと私は子どもなのだろうけれど、もう少し意識してくれたって良いのに。
そんなことを考えてしまってから、それを振り払うように頭を振る。
「どうぞ」
あたためられたマグカップを彼から受け取る。両手で持ってそっと口を付けるとじんわりと熱が移っていく。
中にはちみつが入っているのか、ひどくやさしい味がした。
「きみが泊まるのに必要なものは足りているかと思いますが、万一何かあれば言ってくださいね」
「えっ!」
思わずむせそうになった。私の大きな声に彼が逆に驚いたように目を丸くさせる。
「ととと泊ま……!?」
せっかく落ち着いたと思ったのに、声は裏返って戻らない。つい立ち上がってしまった勢いはどこに向かえば良いのか分からないまま、握った拳を中途半端に空中に漂わせる。
「そこまでお世話になるわけには……! 帰ります!」
「でも今のきみには行くあてがないでしょう?」
彼の言葉にドキリとする。――“今の私”には帰る場所がない。
「この雨の中どこへ行くと言うのです? 加えて今のきみは未成年ですから深夜に外をうろつくのは問題があるかと」
彼の言うことはもっともだ。警察に保護されても身分を証明するものはないし、未来の私がどこに住んで、どうやって暮らしていたのかも知らない。もし一人暮らしをしていたとしても鍵を持っていない私は入れないし、かと言って実家に行こうものなら両親を卒倒させてしまうだろう。
「きみを危険な目に合わせるわけにはいきません」
そう言う彼の目には強い意志があった。子どもを夜遅くにほっぽり出すなんて彼には出来っこないのだというのは分かる。申渡くんはやさしい人だから。
「えっと、それじゃあお言葉に甘えて一晩だけ……。お願いします」
私が頼れるのはこの世界で彼だけなのだ。
「大丈夫ですよ。必ず帰れますから」
私の心を見透かしたように彼が言う。単なる慰めかもしれないけれど、申渡くんがそう言ってくれるならと安心出来た。
「今日は疲れたでしょう」
そう言われると否定出来なかった。色々なことがありすぎて頭はついていかないし、雨で冷えた体は気だるさが抜けきっていない。
「ベッドを使ってください。私はソファーで寝ますので」
「そんな! 私がソファーで寝るので大丈夫です! むしろ床で十分です!」
「まさか女性をそんなところで寝かせるわけにはいきませんよ」
「お気になさらず」と彼は当然のように言って、私をベッドへ促す。
彼に女性などと言われると何だかドキドキと落ち着かない。彼からしてみたら子どもと言われてもおかしくないはずで、さっきは実際に子ども扱いだったくせに。
「ほら」
促されるままにベッドにもぐりこむと、ふわりと布団を掛けられる。寝心地の良いふかふかの布団だった。
横になると疲れを思い出したのか、ずっしりと体が重く感じられた。
「申渡くん……」
「きみにそう呼ばれるのは何だか懐かしく、こそばゆいですね」
彼がぽんぽんと肩のあたりを叩くのが心地良く、瞼が下がってくる。
「」
そういえば、彼は私のことを『さん』ではなく名前で呼んでいた。私がこちらへ来たときもすぐに誰だか分かったようだった。
もしかして、もしかしたら、卒業しても大人になっても申渡くんと変わらずに交友が続いているのかもしれない。もし、本当にそうだったら良いのに。
ずっと、ずっと申渡くんと一緒にいられたら良いのに。出来ればもっと近い距離で。
「寝顔は今と変わりませんね」
頭にぼんやりと霞がかかったように物事がよく考えられない。彼が何か喋っていて、私はそれに応えたいのに。
「……さすがにこちらは恨まれそうなので」
おでこにやわらかいものが触れる。
それが何なのか確かめたかったのだけれど、体は泥のように重く、瞼はもう少しも開きそうにない。ずるりと意識が向こう側へ持っていかれそうな感覚がする。
「――約束します」
微睡みの中で最後に聞こえたのは、彼のひどくやわらかな声だった。
*
「ん……」
「起きましたか?」
瞬きをするとゆっくりと人影が像を結ぶ。よく知った顔がこちらを覗き込んでいる。
「さわたりくん……」
「はい、おはようございます」
そう言って彼が微笑む。その顔は私がよく見知ったものだった。彼の後ろにはよく晴れた青空が見える。
「申渡くんっ!」
思わず飛び起きると、彼が思いっきり体を仰け反らせた。
「あ、あれ?」
周りを見渡すと、知っている公園の景色だった。寝ているのはベッドではなく、公園のベンチ。太陽は少し傾いているもののあたりはまだ明るいし、雨も降っていない。
「疲れていたのでしょう。突然眠ってしまったので私も驚きました」
そう言って申渡くんがやさしく微笑む。帰ってきたことに安堵する暇もなく、勢いよく立ち上がる。
私は申渡くんの膝の上で一体何を。
「ご、ごめん!」
「いえ、むしろ役得でした」
真面目な顔で言うので冗談だか何だか分かりづらい。
彼の顔をじっと見てみても、変わらない。正しく高校生の申渡くんだった。そのことにほっとする。
――あれは夢、だったのだろう。
そう思うと途端に頬が熱くなった。いくら申渡くんに片思いしているからと言ってあんな夢を見るなんて。
熱を冷ますように頬に手を当てる。夢の中でも同じようなことをした気がする。
「さん?」
申渡くんが不思議そうに私の顔を見る。
大人になった申渡くんは余裕があって格好良かったけれど、今の方がひどくドキドキしている。
夢の中では彼に彼女がいた焦燥感からか、それとも夢の内容が非現実なものだったせいか、不用意に言葉が口から溢れ出てしまいそうになる。その衝動を抑え込むのに精一杯だというのに。
「さん」
それなのに、申渡くんはいつだか見たように眩しそうに目を細め、やわらかく私の名前を呼ぶのだ。
2019.11.28