春は夜が来るのがほんの少し遅い。
 数週間前までは同じ時間でも日が暮れ、すっかり辺りが暗くなっていたはずなのに、今日はまだ明るい。
 太陽は隠れきっていなくて、オレンジ色の光が彼の横顔を照らしているのが、今の私にとってはひどく恨めしかった。
「それでは、今日はお疲れ様でした」
 そう言って申渡くんが解散を告げる。いつもの時間、いつもの駅前、いつものメンバー。ただひとつ違うのは私の心の中だけのようだった。
 冬になって、申渡くんが「暗くなってしまったので送ります」と言ってくれたときはとても嬉しかった。同じ時間に解散しても、日の短い冬は私が一人で帰るのを心配して毎日送ると言ってくれた。
 彼の負担になってしまうとは思ったのだけれど、私はふたりきりでいられるその時間と彼のやさしさが手放し難くて、送らなくても大丈夫という一言を言い出せなかったのだ。
「じゃあ、また……」
 そう言う自分の声はひどく沈んで聞こえた。
 辺りはまだ夕日の色で明るく、どう頑張っても暗いとは言えない。さすがにこの明るさでは申渡くんも送るとは言ってくれないだろう。
 思わず吐いた溜め息は誰にも拾われることなく、アスファルトに落ちた。帰らなくてはならないと分かっているのに、足はなかなか動こうとしない。
 未練がましく彼の方へ意識を向けると、申渡くんが辰己くんに「先に帰っていてください」と言っているのが聞こえた。辰己くんがそれにおだやかに笑って「分かったよ、栄吾」と答えている。
 思わず勢いよくそちらへ振り向いてしまった。
「文具店に寄りたいので」
「私も! 文房具見たい!」
 そう言って私が会話に割り込むと、申渡くんは一瞬驚いたようにこちらを見て目を丸くさせた。しかし、そのすぐあとにふわりと目を細める。
「では、一緒に行きましょうか」
 自分の必死すぎる声が恥ずかしくなってきたけれども、申渡くんはさして気に留めなかったようだった。いつものように私を促して、歩き出す。
「きみは何を買うのですか?」
「えーっと、その、何買うかはまだ考えてなくて……」
 自分から一緒に行きたいと言ったくせにその理由を考えるのを忘れていた。申渡くんともう少しだけ長く一緒にいたかっただけなのだけれど、それをそのまま言えるわけがない。
「ウィンドウショッピングのようなものでしょうか」
 けれども申渡くんは私の答えを都合よく解釈してくれたようだった。
「そう! 申渡くんは?」
「私はノートを」
 その言葉の通り、お店に着くと申渡くんはノート売り場へ向かった。
 彼はすぐに目当てのものを見つけると、手に取ってこちらを振り返った。いつも同じものを使っているらしい。何度か彼が手に持っているのを見たことのある表紙だった。
 申渡くんの目当てのものが早々に見つかってしまったので、私も適当にボールペンコーナーを見ているふりをする。申渡くんが後ろをついてくるので、そちらばかりが気になって正直ペンを見るどころではなかった。
「このペン、私も持ってるけど色が綺麗でお気に入りなんだ」
「確かに発色が良いですね」
 何気なく言った言葉だったのに、そう言って申渡くんが探していたノートと一緒にその色のペンを買っていったので、なんだか心の奥がくすぐったい心地がした。

 お店を出ると、空は見慣れた紺色に染まっていた。思ったよりも買い物に夢中になりすぎてしまっていたらしい。
「少し夢中になりすぎてしまいましたね。遅くなってしまったので送ります」
「あ、ありがとう!」
 申渡くんが言い出してくれるのを期待していたくせに、声は不自然なほど弾んでしまった。
 申渡くんがにこりと微笑んで歩き出したのを見て、ほっと息を吐く。
 まるで昨日の帰り道の続きのようだった。
 春になったばかりの夜は空の闇色も淡く、風もふわりと肌にやわらかく触れる。少しも寒くなくて、ほんのちょっとだけゆっくり歩きたくなってしまう。
「確か、この先にお花見にちょうど良い場所があるとか」
 彼の言葉を証明するかのように、前方から花見を楽しんできた様子の人々が歩いてくる。その大人たちは皆スーツの上着を脱いで、大きな声で笑いながらとても楽しそうにしていた。
 申渡くんがぐっとこちらへ身を寄せたので私は慌てて道の端に寄った。広く空いた道を大人たちが通っていく。
「高校生カップル? かわいー」
 すれ違い様、女の人がひとりこちらへ顔を近付け、目の前でへにゃりと笑う。綺麗な服を身に纏い、まるで大人のお姉さんの見本のような格好をした人が、そんなふうに無防備な笑顔を見せたことに何故だかドキリとする。彼女の、目元に乗せたアイシャドウがキラキラと光っていた。
 その華やかな光に目を奪われていると、申渡くんがすっと間に入って私から彼女を隠してしまう。
 申渡くんの向こうから再び「かわいー」と言う女の人のふにゃふにゃとした声が聞こえた。
「先輩、未成年に絡まないでくださいよ」
「事実を述べただけじゃない」
「はいはい、飲みすぎですよ」
 先輩と呼ばれた女の人の代わりに、隣を歩いていた若い男の人が「ごめんね」と謝る。彼は彼女の腕を取り、支えて歩く。大人にとっては何でもないことなのかもしれないけれど、私はその近すぎる距離に驚いてしまって、「いえ……」と口の中でもごもごと言うのが精一杯だった。
 彼らはそんな私の様子を気にも留めず、そのまま歩いて行ってしまった。振り返ると女の人がふらふらと電柱にぶつかりそうになっているのを、周りの人たちが真っ直ぐ歩かせようと必死になっているところだった。また女の人が後輩の彼に寄りかかるように体重を預けているので、私はさらに見てはいけないものを見てしまったような気分になった。
 顔を背けるように前を向き直すと、申渡くんの背中が見えた。そこになって急に先ほどカップルと言われたことを思い出して、途端に顔が熱くなった。きっと彼女はお酒を飲んだせいで判断力が下がってしまっていたに違いない。
「どうかしましたか? 顔が赤いようですが……」
 そんなことを聞かないでほしかった。
「申渡くんは何とも思わなかった? その、カップルって言われて……」
「そう言えば、そのようなことも言われていましたね」
 そう言って申渡くんはゆるく握った手を唇に当て、記憶を辿るような仕草をしてみせる。
「高校生の男女がふたりで並んで歩いていればそのように思われるのも仕方ないかと」
 申渡くんがいつもと表情を変えずになんてことのないように言う。きっと申渡くんにとっては取るに足らないことだったのだ。そう思うと急激に気持ちがしぼんでいくのが分かった。
「もしかして不愉快に思われましたか?」
 答えないまま俯いて歩き出す。申渡くんの靴が同じテンポで隣に並んだ。
 私ばかりが意識していて恥ずかしい。
 このまま黙っていては私が申渡くんのことを嫌っているみたいに思われてしまいそうで、何と言っていいか分からないままに口を開く。
「その、嫌ってわけじゃないけど……」
「けど?」
 申渡くんに迷惑だと思われるよりは良い。でも、もう少し私のこと意識してくれたっていいのにと身勝手なことを思う。
「……びっくりして」
 何とも間抜けな答えだった。
「そうですか。……きみが嫌でないのなら良かった」
 そう言う彼の声はかすかに弾んでいるように聞こえた。どういう意味かと慌てて申渡くんの顔を確認しようとしたのだけれど、彼の方がほんの少しだけ前を歩いているせいで表情が見えなかった。
 かろうじて見える彼の口元はゆるく弧を描いていて、きっと悪い意味ではないのだと思う。その分期待してしまって、どうしても確かめたくなってしまった。
 トトと片足でステップを踏んで何とか彼の顔を覗き込もうとする。あと少しというところで、申渡くんが突然こちらを向いた。
 至近距離で申渡くんの視線を受けて「わっ」と間抜けな声とともに、ぐらりと体が傾いた。
「――危ないですよ」
 申渡くんの声がすぐ近くから聞こえる。何だかあたたかい。
 肩に触れているのが申渡くんの手のひらで、私がぴたりと顔をつけているのが彼の胸板だということに遅れて気が付く。
 パッと離れると、残った彼の指先が私の頬を撫でた。
「きみはお酒を飲んでいないはずですが」
 そう言って申渡くんがくすりと笑う。
 お酒なんか飲んでいない。お酒を飲める年じゃないし、お酒の味だって分からない。それなのに、まるで酔っ払ってしまったかのように足元がふわふわと覚束ないし、頭もくらくらしていつも以上に物事が考えられない。
 ひどくあつい。
「えっと、その……」
 先ほど彼の触れた頬に自分の手をぴたりと当てる。自分の手がひんやりと冷たく感じられるほど顔が熱くなっていた。
 申渡くんにはそんなつもりはなくて、転びそうになった私を助けてくれただけだし、偶然指先が頬に触れてしまっただけだと分かっているのに、一度激しく鳴り出した心臓はなかなか落ち着いてくれそうにない。
「怪我がないようで何よりです」
 申渡くんとかちりと目が合う。私は彼の視線を真正面から受け止める準備がまったく出来ていなかった。どきりとおかしなふうに心臓が鳴る。
 耐えきれずに視線を逸らすと、花びらが一枚、道路に落ちていた。さっきの花見帰りの誰かの服に付いていたものかもしれない。
「えっと、桜ってどの辺に咲いてるのかな? ね、私たちも皆でお花見しない?」
「それは良いですね。皆の今週末の予定を聞いてみましょう」
「夜桜?」
「私たちは学生ですから昼間の方が良いでしょうね」
「そっかぁ」
 道はちょうど橋に差しかかるところだった。
 申渡くんに伝えたいことが沢山あるはずなのに、どうしてか言葉が見つからない。胸の中は溢れそうなほどいっぱいなのに。
 申渡くんも黙って隣を歩くだけだったけれども、不思議と沈黙が気まずいわけではなかった。
 ふと川沿いに目を向ける。花見の明かりはここからではよく見えないが、きっとこの先に桜が植わっていて、沢山の人が花を眺めているのだろう。
 橋を渡りきる直前、申渡くんが「あの」と私を呼び止めた。彼が私の正面に立つ。
「どうしたの?」
「やはり、きみとふたりきりで花見をしても良いでしょうか?」
 ふわりと風が吹いて、彼の髪が揺れる。
 彼の目元が、淡い色の花びらと同じ色に染まっている。そのことに気が付いて、すぐそこまで出かかった言葉はどこかに行ってしまった。
 まるでいとおしいものを見るかのようにおだやかに揺れる瞳は、いつもより熱っぽく真っ直ぐにこちらを見つめている。
 ゆるく心臓が締め付けられるようで、私は思わず胸の前に置いた手をきゅっと握りしめた。深呼吸をするように息を吸い込めば、しっとりとやわらかい空気が胸の中いっぱいに満ちていく。
「あのね、私も申渡くんとふたりで行きたい……」
 頭は霞がかかったようにぼんやりして、それなのに心臓がドキドキいう音だけは大きく聞こえる。
 彼の瞳に私は一体どんなふうに映っているのだろう。頼りない私の声は彼の耳にちゃんと届いただろうか。
「良かった」
 夜に溶けそうな表情で申渡くんが微笑む。
 真上には月がやわらかくにじんでいた。

2019.10.13