※天使パロ
ある日、私は天使が見えるようになった。
「なるほど、きみが好きなのはあの男性ですね」
下校時刻、部活を終えて帰る人の波に紛れて歩いていると耳元で声が聞こえた。驚いて振り返ると、肩のあたりにそれは浮いていた。
小動物くらいの大きさで、白い布を身に纏い、羽が生えていて、頭の上には輪っかが乗っている。天使のイメージそのままの姿をしたそれは、突然振り返った私と目が合うとひどく驚いたように目を丸くさせた。
「私が見えているのですか?」
口の動きに合わせて先ほどと同じ声がする。やはり先ほど聞こえた言葉は間違いではなかったようだ。もしかして夢を見ているのではないかと思って目を擦ってみたけれど、目の前のそれは変わらずパタパタと羽を動かして飛んでいる。
「えっ、何?」
「私はきみをしあわせにするためにやってきた天使です」
事態が飲み込めずに思わず発した言葉だったが、それは自分の存在を尋ねられたと思ったのか胸を張って答えた。
「きみの恋を成就させることによってしあわせにするという計画です」
恋を成就、しあわせにするという計画、と彼の言葉を繰り返す。これらの単語だけ聞くと怪しさしかない。しかしそんなことは見たこともない生き物を前にするとひどく些細な問題のように思えた。
「任せてください」
その天使はトンと自分の胸を叩いて自信満々に言った。彼が手のひらを上に向けると瞬きの間にぱっと弓と矢が現れた。分かりやすく、矢の先はハート形になっていた。
「シュッ、パッで射抜いてみせます」
そう言って彼は弓を引く真似をしてみせる。彼の言うシュッパッがどんなものかは分からなかったけれど、彼の言い方に若干の不安が過ぎる。
「えいっ!」
「あっ、ちょっと……!」
止める間もなく、彼の放った矢が飛んでいく。――私が先ほどまで目で追っていた先輩へ向けて。
「あっ……」
けれども、放たれた矢は目標に届く前に失速し、へなへなと情けなく地面に落ちた。
何とも言えない気まずい空気が流れた。何か励ましの声でも掛けた方が良いかと天使の方を見ると、がっくりと肩を落とし、見るからに落ち込んでいた。
こちらは結果をある程度予想していたが、彼は本気で自信があったのだろう。彼が本物の天使だとしたら、こんな風に上手くいかないことがあるというのも意外と言えば意外だった。不思議な力で百発百中でもおかしくない。
「まぁ、こんなこともあるよ」
慰めの言葉としてはやや気の利かない無難な言葉しか出てこなかった。この矢を射ることが天使界でどれくらいの難易度なのかは知らないが、人間で言えば弓道が出来るなんて私からすればすごいことだ。けれども、彼にはその慰めの言葉も届いていないようだった。
「……少々修行が足りなかったようです。天界で修行してきます」
天使は肩を落とし俯いたまま上へ飛んでいき、ある一点を超えると消えるように見えなくなってしまった。
何度瞬きをしても姿は見えないし、頭を振ってももう何も聞こえない。ただ、同級生のお喋りする声や足音が通り過ぎていくだけだった。
*
天使は本当にいるのか。私が見たのは本当に天使だったのか。だとしたらそれが見えた私は一体何者なのか。
そんなことを帰ってからぐるぐる考えていたが、一晩寝て起きると、あれは夢だったに違いないという結論に至った。
昼間からあんな夢を見るというのもなかなかやばいが、あれが現実であることよりはまだ受け入れやすかった。
「今度こそ当ててみせます」
けれども、それが再び私の前に現れたのは思ったよりも早かった。
あれから二日後、また下校中、学校の最寄りの駅でのことだった。あのとき聞いた声がもう一度聞こえてまた私が驚いて振り返ると、彼は例の弓矢を携え、ふよふよと上下に揺れながら飛んでいた。
「修行終わるの早くない?」
「天界と地上とでは時間の流れが違うのですよ」
言われてなるほどと納得してしまった。天使を前にしても以前よりは驚かなくなっているし、慣れとはこういうものかと思った。
「射程距離も伸びました」
人間界の二日が天使の世界では何日に相当するのか知らないが、どことなく彼の雰囲気が変わっているようにもみえる。
「確か、あの人でしたね」
「ちっがーう!」
そう言って彼が全く見当違いの方向へ矢をつがえるので、私は慌ててそれを止めなければならなかった。
「私が好きなのはあっちの人!」
彼の頭を持ってぐりんと顔を無理矢理そちらへ向ける。彼はぱちぱちと目を瞬いたあと、手元に資料らしき紙を出してそれと何度も見比べた。
「人間は難しいですね」
さっきの人は大学生のように見えるし茶髪でジーパンにTシャツなのに対して、先輩は髪を染めてないし学校のブレザーを着た制服姿だ。背格好も特別似ているようには見えない。さっきの人を何をもって一緒だと判断したのか分からないが、もしかしたら私がネズミの個体を見分けられないのと同じような感覚なのかもしれない。
「任せてください。これでも学校では常に成績上位、スター・オブ・スターと呼ばれた男です」
天使の世界にも学校があり、さらにはカーストまであるらしい。
彼の任せてくださいという言葉は前回も聞いたが、今度も一抹の不安が胸を過ぎる。
「それっ!」
掛け声とともに放たれた矢は今度は勢いよく飛んでいき――先輩から一メートルほど離れた壁に刺さった。
先輩はそのまま改札を通り、人混みに紛れて見えなくなってしまった。
「外してるじゃん」
「私の伸びた射程距離のさらに先に彼はいたようです。先ほどのあちらの彼であれば余裕で射抜けたのですが……」
そう彼は負け惜しみのようなことを言う。修行とは何だったのか。
修行によって手ごたえを感じたからか、彼は前回ほど落ち込んではいないように見えた。それでも結果が出なかったことは可哀想に感じたので、私は少しだけ話題を変えることにした。
「矢で射抜くと具体的にどうなるの?」
「途端にきみのことが好きになり、この場で即告白してきますね」
「この場で即!?」
予想外の答えが返ってきて、思わず大きな声を出してしまう。
「ちょっとムリムリムリムリ」
私が手と首を勢いよく横に振って言うと彼は少しムッとした表情をした。
「何が不満なのですか。きみは先輩のことが好きなのでしょう」
「だからってこんなに人が沢山いる場所で告白されるなんて恥ずかしいっていうか、ムードがないっていうか……」
「なるほど、ムードですか。……人間は告白される場所や雰囲気なども重要視するのですね。興味深い」
天使の矢とかいうすごいアイテムなのだから、その辺も不思議な力が働いて何か自然な感じになるのかと思っていたのだけれど、そんなものは天界には関係ないことらしい。
「最短で結び付ければそれだけしあわせである時間が増えるから良いと思っていましたが、それだけではないのですね。私としたことが告白の瞬間の幸福度というものを計算に入れていませんでした」
そう言って彼はじっと考え込んでいる様子だった。
「私にはもう少し人間のことを勉強する必要があるようです」
何となくそれには私も同意した。彼は人間界に来てまだ間もないようだったし、せめて人間の顔の判別くらいは出来るようになってほしい。
「何か、参考書のようなものがあれば良いのですが……」
「これは?」
鞄の中から友達に貸してもらった漫画を取り出す。今流行っている少女漫画で、参考書のようかどうかは分からないが、多少は人間の恋愛について学べるのではないかと思ったのだ。
彼はそれを受け取るとパラパラとめくって「なんと!」と驚いた声を上げた。
「素晴らしいです! これさえあればきっと上手くいくに違いありません! 地上にはこんな立派なものがあったのですね!」
ただの漫画だけど、と思ったがそれを初めて見た人にとっては感動ものなのだろう。確かに、絵で人間の感情が丁寧に描かれていて分かりやすい。
「うちにも他に何冊かあるけど」
「ぜひとも読んでみたいです!」
ずいと天使が顔を近づけてくるので思わず仰け反った。この天使は学習に対する意欲がすごい。こちらとしては借りた漫画は途中の巻だし、それ一冊だけ読んでもストーリーもよく分からないのではないかと思って提案しただけなのだけれど、彼はそれをひどく喜んだ。
さっきみたいに全然違う人に矢を当てられても困るし、そもそもムードがどうこうと言い出したのは私なのだから、彼の勉強の手伝いをするくらいは面倒を見てあげても良いのではないかと思えた。
「ねえ、名前は? ずっと“天使”って呼んでるのもアレだし」
万が一会話を他人に聞かれたときに“天使”だなんてワードが出てきたら完全にアレな人だと思われる。
「栄吾です」
「えーご? そんな日本人みたいな名前なの? 天使なのに?」
「天界での名前は別にあります。“栄吾”は今回の派遣先に合わせて与えられた名前です」
そういう制度があるんだと感心すれば、彼はまた誇らしそうな表情をした。
*
両手いっぱいの紙袋を携えて学校から帰ってくると、自分の部屋の中から何やら「シュッ、パッ! シュッ、パッ!」と言う声が漏れていた。
「シュッ、パッ!」
「ただいまー」
そう帰宅の挨拶とともに部屋に入ると、部屋の真ん中で弓を構えて飛んでいた天使がびくりと大げさに体を震わせた。
「うわっ!」
突然の物音に驚いて手を離してしまったらしく、矢があらぬ方向へ飛んでいく。彼は上から垂直に落ちてきた矢を身をよじってすんでのところで避けた。トスっと軽い音がして矢が床に刺さる。
「ノックぐらいしてください!」
「自分の部屋に入るのにノックしたら不自然でしょーが。栄吾は他の人には見えないんだから」
壁に大きな丸を書いた紙を貼って、こっそり弓矢の練習をしていたらしい。腕が上がったというのは嘘ではないらしく、最後の一本以外は全て円の中心に命中していた。
真面目に練習するのは良いことだけど、壁や床に穴開けないでよ。そう怒ろうと床に目をやると、彼が矢を抜いた後には傷ひとつなかった。忘れがちだがあの矢は魔法のアイテムなのだった。
「ほら、また友達が漫画貸してくれたよ」
「こんなに沢山! ありがとうございます!」
両手に持っていた紙袋を置くとドサリと中々大きな音がした。栄吾は私の持っていた少女漫画はすでに読み切ってしまい、今は私が友達から借りてきたものを次々読破している状況だ。お願いすると友達は快くオススメを貸してくれた。
この数日の間で私も随分と少女漫画に詳しくなった。友人の大好きな漫画が人気アイドル主演で映画化すると聞いたので、今度一緒に観に行く約束もした。
「どう? 良い案思い付いた?」
「例えば、私が彼の方へきみを思い切り突き飛ばす。それを見事キャッチした彼がきみに一目惚れした……ように見えるタイミングで私が矢で射るという筋書きはいかがでしょう」
「自分で言うのもなんだけど、先輩が私に一目惚れって筋書き無理がない?」
「いえ、きみは十分チャーミング……と言えなくもない顔立ちをしているので大丈夫です」
「そこはお世辞でもかわいいって言ってよ!」
失礼な天使だ。自分で振ったことだが、この天使はもう少し女の子に対するデリカシーというものも学んだ方が良い。
「まぁ、先輩が急にこっち歩いてきて突然告白するよりはマシだけどさ」
まだ我々が参考にすべき漫画は山積みにされていて、時間はまだまだたっぷりあるのだ。ゆっくり考えても罰は当たらない。
ごろりとベッドに転がって漫画を手に取る。昨日の夜読んだ続きが一日気になって仕方なかった。
「チョコ食べる?」
「ちょこ?」
鞄の中からお菓子の袋を取り出して一粒差し出すと、天使はそれをまじまじと眺めた。興味があるようで、目がキラキラと輝いている。
「天使に食事など必要ありませんが、きみがそこまで言うのなら」
「そこまで言ってないから、いらないなら食べなくていいよ」
私の方もつい意地悪を言ってしまったが、目の前でチョコを持った手を左右に振ると、彼の顔も一緒にそれについてくるものだから面白かった。
天使は甘いものも好きらしい。
*
「それももう読み終わっちゃったの?」
学校で勉強しなければならない私と違って、日中ずっと漫画を読んでいる栄吾は借りてきた漫画をもうほとんど読み終えてしまっていた。数年前に完結したタイトルの最終巻をちょうど読み終えた栄吾はぱたりと本を閉じるとこちらへ向き直った。
「非常に参考になりました」
そう言う栄吾の表情は自信に満ち溢れている。栄吾がぱたぱたとこちらへ飛んでくるので、私もベッドの上で寝転がっていた体勢から起き上がる。
「きみがマフィアに連れ去られたところを先輩が助けにくるというのはかなりロマンチックでは?」
「待って、世界観が物騒すぎる」
「なかなか良いと思ったのですが」
「実現可能なやつにしてくれる?」
反社会的勢力の方々をどうやって用意するのだ。例えロマンチックだとしてもそんな危険な演出はお断りしたい。
「もう一つ考えたのは、きみがナンパされたところを先輩が助けてくれる。それでお礼と称してデートに誘い……というものです。こちらはいかがでしょう」
「ベタだね。でもそんな都合良くナンパされるかなぁ」
変わり映えしないようにも見えるが、突然一目惚れされるという筋書きからワンクッションデートを挟むことによって大分まともになったように思えた。問題はまだ残っているにせよ。
「そこは任せてください」
この天使の任せてくださいは当てにならない。そう思って期待していなかったのだけれど、ポンという音とともに突然煙が立ち込める。
何事かと呆然としている間に、中から男の人が現れた。
「短時間であればこのように人間の姿になることも可能です」
「えっ、めっちゃ便利」
男の人の口から栄吾の声がする。顔もよく見れば栄吾と同じだ。
こんな魔法のようなことも出来るだなんて思っていなかった。少し栄吾のことを見直してしまった。
「きっときみをしあわせにしてみせます」
それはまるでプロポーズのような台詞だった。
少女漫画を読みすぎたのかもしれない。正体はあの小さな天使で、しあわせにするというのも天使の使命のことだと分かっていたのに、なぜか心臓が一度ドキリと鳴った。
*
天使は早起きだ。人間と違って寝なくても大丈夫な体ということもあって、大抵私が目覚める時間には起きていて、弓矢の練習をしたり、彼の参考書を読んで勉強したりしていた。
最近は漫画だけではなく、具体的に作戦を実行に移すためにデートコースなどが載っている雑誌も彼の参考書として追加された。
「勉強熱心だね」
覗き込むとページの何箇所かに付箋が貼られていた。付箋に書かれた文字は天使の文字なのか私には読めなかったが、小さなスペースにびっしり書かれている。さらには、いくつかのページの角が折られていた。
「完璧なデートコースというものはなかなか難しいです」
そう言って彼がページを捲る。一ページ捲るのにも一々羽を動かして飛ばなければならないので大変そうだった。
「あ、このお店」
捲った先のページに見知った店名があった。店内の写真と店イチオシのパフェの写真が載っていて、その横にも付箋が貼ってあった。
「ここ今度友達と行くんだー」
そう何気なく言うと、栄吾は驚愕したように目と口を開けてこちらを見た。
そしてようやく「ず、ずるいです!」とだけ言った。そんなにショックを受けることだっただろうか。
「このお店テイクアウトがないから栄吾は無理だよ。栄吾の姿は他の人に見えないんだから空中で食べ物が消えたら皆びっくりしちゃう」
「むむ」
「じゃあ栄吾、お留守よろしくね」
ひらひらと手を振って部屋のドアを閉める。早起きの栄吾がいてくれるおかげでここ最近の私は、寝坊することなく朝食もきちんと食べてから余裕を持って登校出来ているのだ。
*
いつものように下校しようとしていると門の辺りが何やら騒がしかった。どうやら校門のところに男の子がいるらしい。誰かの他校の彼氏だろうか。今時校門前で待ち合わせするカップルなんて珍しい。
そう思って通り過ぎようとしたのだけれど、そのTシャツにジーパン姿の男の子が見覚えのありすぎる顔だったものだからぎょっとしてしまった。
「栄吾!? こんな姿で何やってるの!?」
私の声にパッとこちらを振り向いた栄吾は花を咲かせたような笑顔を見せる。周囲がざわつくのも分かる気がした。
「きみがあの店にはテイクアウトがないと言っていたので。この姿なら一緒に食べられるでしょう?」
「ほら、行きましょう」と言って栄吾が私の腕を絡めとる。ぎょっとして「栄吾!」と名前を呼んだが、彼の頭の中はすでにパフェでいっぱいになっているらしく届かない。小さい姿のときはよく肘のあたりの服を掴んで引っ張られるので彼としては同じ感覚なのだろうけれど、この姿でそれをやられると困る。
それを言い出せないまま、半ばズルズルと引き摺られるように連れられてしまった。
*
「おいしいです……!」
一口食べると彼は一瞬で瞳の中を輝かせた。大きな姿になって初めて気が付いたが、文字通り彼の瞳の奥は星が瞬くようにちかちかと光っているのだ。
結局天使の強引さに負けて連れてこられてしまったが、これだけ喜んでもらえるのなら悪くないように思えた。
「こんなにおいしいものは生まれて初めて食べました」
そう言ってもう一口食べては「こんなものが地上にあったとは……」といたく感動している様子だった。生まれて初めてという言葉も、彼の場合百何十年とかいう単位なのだから比喩のスケールが大きすぎる。
「……たまになら、また連れてきてあげてもいいけど?」
「本当ですか!」
彼が身を乗り出してきたので、私は思わず仰け反った。カタンとテーブルが音を立てる。そこまで大きな音ではなかったけれど、やはり彼には姿が大きくなった自覚がないらしい。一瞬店内のいくつかの視線がこちらへ向けられたような気がして、少し恥ずかしかった。
「しかし、きみは昨日も財布の中身を見ながらお小遣いが足りないとぼやいていたはずでは?」
「それは事実だけど! でもまぁ、栄吾はいつも私のために色々考えてくれてるし、たまにはお礼してもいいかなーと思って」
部屋に同居人がいることを忘れて呟いた独り言はばっちり聞かれていたらしい。女子高生にとってお小遣いとはいくらあっても足りないものなのだ。
「月に一回! それ以上は無理だからね!」
そう言って指を突きつけると彼はその指先を見て、ふっと表情をゆるめ微笑んだ。
「きみはやさしい人ですね。天の思召しによって選ばれたのも分かる気がします」
「大げさだなぁ。これくらい普通だって」
何だか恥ずかしくなって自分のパフェから生クリームをスプーンで掬って口に入れる。栄吾が感動するのも分かるほどおいしかった。
「そういえば天使の派遣先ってどうやって選ばれるの?」
「ルーレットです」
天の思召しとはそういうものらしい。
*
ひとつのプリンを半分栄吾に分けて一緒に食べようとしているときだった。最近太ったのではありませんかと尋ねるときと同じくらいのさり気なさで栄吾が言った。
「きみは先輩のどこが好きなのですか?」
「えっ……?」
「そういえばこれまで聞いてこなかったと思いまして」
聞かれなかったので言ってこなかったような気もする。そういうものは使命に関係ないことだと思っていたし、恋バナなど天使は興味ないと思っていた。改めて聞かれると言いづらい。
「えーっと」と視線を彷徨わせて考えていると、栄吾が顔の前を飛んで言葉の先を急かしてくる。このまま逃げられそうにもない。
「サッカー部で、エースだし、イケメンだし……」
「それで?」
「爽やかだし、優しいし、人気者だし……」
「……失礼ですが、今まで先輩と会話したことは?」
「ない。いや、帰りに校門前で偶然会って友達と一緒に『お疲れ様です』って声掛けたことはある!」
そのとき先輩はこちらを見て『おう、おつかれー』と返してくれた。
「つまり、きみは私にあれほど言っておきながら、先輩の個人的なことはほとんど知らないと」
「うるさいなー! そりゃ先輩と仲良くなりたいけど、学年も部活も違うんだからそう気軽に話しかけたり出来るわけないでしょ!」
ライバルは多いし、特別な接点もない。たまに校内で見かけては、いいなぁと思うだけ。しかし、だからと言って好きになってはいけないなんていう決まりはないはずだ。
もちろん、まさか本当に先輩とどうこうなれるだなんて思ってはいなかったし、告白する気だってなかった。――私は栄吾が現れるまで、普通の女の子だった。
「でも、遠くからでも、先輩の明るい笑顔を見てるとこっちまで元気になるっていうか……」
「……なるほど」
そう言うと天使はゆっくり机の上に着地した。何かの審査というわけではなかったとは思うけれど、その栄吾の態度が気になった。それなのに彼は尋ねても「何もありませんよ」としか答えないのだった。
その日、珍しく天使はおやつのプリンを食べなかった。
*
いつものように「ただいま」と言いながら自室に入ると、これもまたいつものように栄吾は雑誌を読んでいた。今日は何やら夢中になっているようで返事もない。毎日毎日よく飽きないものだ。
「何読んでるの?」
「――っ!?」
私が後ろから覗き込むと、栄吾は数センチ飛び上がって驚いた。
「いつからいたのですか!? 帰ってきたのならきちんとただいまの挨拶を――」
「ただいまなら言ったよ。栄吾が気付かなかっただけでしょ?」
言いながら鞄を床に置く。
「何見てたの?」
「な、何でもありませんっ!」
そう言われるとますます怪しい。パッと雑誌を取り上げると栄吾が「ああ!」と情けない声を出す。私の方が栄吾より何倍も大きいのだから敵うわけがないのだ。
「なんだ、いつものデートコースのページじゃん」
そのページの中に一箇所だけ付箋の貼られている記事があった。どうやら栄吾はこれを見ていたらしい。
「何? これ食べたいの?」
そこはケーキのお店のようだった。店内は女子ウケしそうなおしゃれな内装で、ケーキもかわいらしいし、何よりとてもおいしそうだ。栄吾が夢中になるのも分かる。
値段もそれほど高くないし、今度おやつに買ってきても良いかもしれない。
「このお店テイクアウトあったかなー」
「あの!」
珍しく栄吾が私の言葉を遮って大きな声を出す。スマホで検索しようとしていた手を止めてそちらを見ると、栄吾がじっとこちらを見上げていた。
「その、出来たらまた人間の姿で……」
「お店で食べたいの? まぁ、ひとりで行くにはちょっと遠いし別にいいけど」
「良いのですか!?」
「月跨いでお小遣い入ったし、月に一回って約束したし」
「ありがとうございます……!」
ポンと軽い音がしたかと思うとどこからか煙が立ち込める。一体何が起きたのかと混乱しているうちに二本の腕がにゅっと伸びてきて抱き寄せられた。
「え、えーご!?」
いつもは羽の生えた小さな天使の姿だというのに、急に人の姿になられると困る。たまに小さい姿のときにも私の頬に抱きついてくることがあったから、本人としては同じ感覚なのかもしれないが、こちらとしては同じようにはいかないのだ。しかもこんな風に腕の中にすっぽり閉じ込められては。
「ちょっと、離してよっ!」
そう言っても栄吾はぎゅうぎゅうと私を抱きしめるばかりだった。彼が喜んでいるのが分かるからか、恥ずかしいけれども嫌な気持ちはしなかった。
彼からは人間と同じように心臓の音が聞こえた。
*
それは隣町のスーパーまで特売のお醤油を買いに行かされた帰りの駅でのことだった。
お釣りでおやつを買ってもいいからという甘い言葉につられたものの、重いお醤油を二本も持って帰らなければならないことを私は早くも後悔していた。唯一の救いは栄吾という話し相手が付いてきてくれることだった。
「あ、先輩だ」
「どこですか!?」
そんなとき、人混みの中にたまたま先輩の横顔を見つけた。こんなところで先輩を見かけるなんて今日はとってもラッキーな日だ。そう思っているとペシペシと栄吾に頬を叩かれた。
「ちょうど一人ではありませんか! これはチャンスです!」
いつも先輩は部活の仲間や友達と一緒にいて、ひとりきりのときに遭遇する機会は滅多にない。考えた作戦のほとんどは、間違いのないように先輩がひとりきりのときを狙うというものだった。
「先輩に話しかけて時間を稼いでください! その間に私は知恵を絞りますので!」
「ちょっと、待って、急にはムリ!」
まだ先輩に話しかける心の準備が出来ていない。
しかし、そう言っている間にも先輩はどんどん先に行ってしまう。とりあえず追いつかなくてはと思い、階段を駆け上る。ちょうど電車が到着したようで人が沢山降りてくる。先輩が電車に乗って行ってしまっては見失ってしまう。
何とか追いついて呼吸の整わないまま「あの!」と先輩に声を掛けようとした瞬間、ドンと肩に強い衝撃があった。
「――えっ?」
階段の途中にあった体が傾いて、ぐらりと視界が回る。重いお醤油の入ったスーパーの袋が私の体を後ろへ引っ張る。「あっ!」と咄嗟に栄吾がこちらへ手を伸ばすのが見えたけれども間に合わない。
「危ない!」
落ちると思ったのに、覚悟した衝撃はなく、そっと目を開けると先輩の顔がすぐそこにあった。
「大丈夫?」
「だ、だいじょうぶです……」
そう答えながら自分の足で姿勢を立て直す。
先輩がこんなに近くにいて、私に話しかけている。しかも、先輩の手のひらは私の背中に添えられている。
栄吾との作戦会議で話したようなシチュエーションだ。まさか本当に現実になるとは。多少強引な案だとは思っていたけれど、現実になってみるとここから始まるラブロマンスも悪くないように思えた。
――確かにこれはチャンスだ。
ちらりと天使の方を見ると、彼も気が付いたのかちょうど矢をつがえるところだった。ぱちりと栄吾と目が合う。その瞬間、栄吾が微かに表情を歪めたのが見えた。
「――っ!」
彼の放った矢がまっすぐこちらへ向かってくる。
――その矢は先輩の髪を掠めて、数センチずれた壁に刺さった。
「それじゃあ、気を付けて」
そう言って先輩はひらりと手を振って、爽やかな笑顔で去っていった。見ず知らずの女の子をいつまでも抱えている道理もない。こちらも「ありがとうございました」とお礼を言うので精一杯だった。
そうしてぼんやりしていると、ふよふよと天使が近付いてきた。
「すみません。外してしまいました……」
「もう、またとないチャンスだったのに、何やってるのー!」
こんなに良いシチュエーションが次いつ巡ってくるか分からない。もっとも、今回は偶然の産物で、私達の綿密に練った計画とは全く関係のないことだったのだけれど。
「栄吾?」
言い返してくると思ったのに、彼は私の呼びかけにも答えず俯いたままだ。心配になって屈みこんで栄吾の顔を覗き込んだのだけれど、前髪が影になって表情はよく分からなかった。
「どうしたの? もしかして具合悪い? 天使でもお腹痛くなったりするのかな?」
「天使はお腹を下したりはしません。……けれども、そうですね、少々昼食を食べ過ぎたようです」
下痢と食べ過ぎの天使的NGの境目が分からない。けれども、栄吾の声はなんだか本当に苦しそうだった。
「少し、休んできます」
そう言って栄吾はふらふらと蛇行しながらどこかへ飛んでいってしまった。
いつもと違う栄吾の様子に心配になったのだけれど、空の上を飛ばれては私には追いかける術がなかった。
*
それでも、私は栄吾がすぐに帰ってくると楽観的に考えていたのだ。
今までだって栄吾はひとりで出掛けたりもしていたし、栄吾が見える人間は私しかおらず、帰ってくる場所もここしかないと思い込んでいた。
けれども日が暮れて夜になっても栄吾が帰ってこないと、彼のことばかりが気になって他のことは全く手につかなくなってしまった。
「――もう、何やってんのよ!」
パタンと読んでいた漫画のページを閉じて立ち上がる。いつもは返事が返ってくるから、独り言がすっかり癖になってしまった。
夕飯も食べて、お風呂にも入って、もうあとは漫画や雑誌を読んでだらだらしたら寝るだけだったのに、『そろそろ寝ないと朝起きれなくなりますよ』と言う声が聞こえないと、こうも落ち着かない。
結局居ても立っても居られなくなって、上着を羽織ると外に飛び出した。
「栄吾ー?」
茂みを掻き分けている探す様子を、猫か何かがいなくなったと思ったのか周りの人はちらと見るだけで、特別気に止める様子はなかった。
――もしかしたら、栄吾は私に言っていなかったことがあったのかもしれない。
栄吾は天使で、本来なら食事も必要なければ寝る必要もなく、帰る場所はここではなく天界なのだと、今になってやっと気が付いた。
もう私の見つけられない場所に行ってしまっていたらどうしよう。
その不安が胸を過ぎり、足が止まってしまいそうになったとき、公園のベンチでちょこんと座り込んでいる天使の姿を見つけた。「栄吾!」と彼の名前を呼ぶ自分の声は思ったよりも随分と弾んでいた。
「栄吾! こんなとこにいたの? もう夜だよ、帰ろう?」
「……」
私の声に栄吾が顔を上げる。彼が私の名前を呼ぶ声に何故だか胸の端っこがきゅっとする。
「ほら、こんなところで何やってたの?」
大好きなおやつも食べずに。そう言って笑ってみせたのだけれど、栄吾の表情は曇る一方だった。
「きみに合わせる顔がなくて。もうあそこへ帰らない方がいいのかと悩んでいました……」
「何言ってるの。もしかして昼間また失敗したこと?」
「責めてくれて構いません。きみにはその権利がある」
そう言って栄吾はまた俯いた。
「もし、私が人間だったなら……。私は、きみに……」
「栄吾?」
名前を呼んだのだけれど、彼はその先の言葉を飲み込んでしまった。
「私はきみの天使失格ですね」
そう言って栄吾が眉を下げて笑う。その表情に胸がぎゅっと掴まれたかのように痛んだ。そんな風に無理矢理笑わなくたっていいのに。
「何をそこまで悩んでるのか知らないけど、栄吾が矢を当てられないのは今に始まったことじゃないじゃん」
栄吾は矢を当てられなくて、人間のことも全然知らなくて。だから、一緒に漫画を読んだり、一緒に甘いものを食べに行ったりしたのだ。
「栄吾は早く仕事を済ませたかっただろうに、こっちも色々注文付けちゃったりしたしさ」
彼はそれに一生懸命応えようとしてくれた。多分、天使にとっては一人の人間が結ばれたという事実さえあれば良かったはずだ。私という人間が誰と結ばれようが、どうやってくっつこうが関係なく、本来ならあのとき矢を誰かに当ててさっさ終わらせられるはずだった。
それなのに栄吾は私の話を聞いて、どうすれば良いか考えてくれた。改めて考えると私は天使様に随分と自分勝手な都合を押し付けているのだ。感謝こそすれ、責める理由なんてひとつもない。
――それに、栄吾がいないとさびしい。
栄吾が私の言葉にそっと顔を上げる。その表情はひどく不安げだった。それを晴らしたくて、にっと笑ってみせる。彼の瞳に私が映っている。
「私のこと、しあわせにしてくれるんでしょ?」
2019.07.15