母が臥せった。

「あなたをひとりにしてしまう」

母は自分が死ぬことよりもずっと、私の先を案じていた。他に頼れる人もおらず、母がいなくなればそれからどう生きていけば良いのか見当もつかなかったが、私にとってはそんなことは瑣末な問題で、母の命の方がずっと大事だった。

ついにいよいよというとき、ひとりの男性が我が家を訪ねてきた。遠くからやってきた母の知り合いだという。薬代のために売れるものは何もかも売ってしまい、彼のためのお茶の一杯も出せない状態だったが、彼は構わないとだけ言ってやや強引に家の中に入った。

その頃には母の視界はすっかり霞んでしまっていて、彼の姿が見えたのかは分からない。けれども母は彼に手を握られ「ああ」と息を漏らした。その顔には心の底からしあわせそうな笑みが浮かんでいた。

そのときをひとりで迎えることがなかったことに、私は感謝しなくてはならない。

「一緒に来るか?」

そう言った彼が父親なのだと知ったのは、彼に手を引かれ船に乗ったあとだった。

船には仲間が沢山いて、彼らは広い心で私を迎えてくれた。それまでの生活とは一変したが、人が沢山いて何かしらやることがあるその場所はそのときの私には合っていた。

その父も数年後には母なる海に還ってしまった。

けれども母は、父は、私に多くのものを与えてくれた。私にはそれで十分だったのだ。



「こんなところにいたのですか」
「アルベール」

落ちてきた声に顔を上げると、アルベールがこちらを見下ろしていた。目が合うとその右目がふと細められる。その横で半分の月がぽっかりと夜の暗い空に浮かんでいた。

「良い夜ですね」

今夜は数日ぶりに海が落ち着いていた。小さな波たちが船べりにぶつかっては飛沫となって弾けていく。マストに登るとそれらがよく見えた。

「ご一緒しても?」

答える代わりに少しだけ右にずれると、空いた場所に彼が座る。夜風が彼の髪を攫う。

「随分あたたかくなったとはいえ、ここは冷えるでしょう」

そう言って彼は私の肩に持ってきた上着を掛ける。全く彼は準備が良い。

下では船員たちが楽しそうに宴を続けている。今日もこの船は大勝だった。海賊たちは上機嫌で酒を飲み、歌い、騒いでいた。彼らの歌う調子外れな歌声に合わせて体を軽く揺らすと何だか一緒に歌っているような気分になれた。

陽気なメロディの隙間から「あれ、アルベールはどこ行った?」とクリスが彼を探す声がする。彼の声はよく通った。

「今日も活躍したアルベールがいなくては宴も盛り上がらないのではなくて?」
「手柄を上げたのですから自由にさせてもらいますよ」

これが褒美ですとアルベールが笑う。確かに、誰が見ても今日一番の手柄を上げたアルベールの行動を咎める者はこの船にはいないだろう。おそらく船長も好きにしたら良いと言うに違いない。その予想通り「まぁいいか。それよりこれ見てよ!」と話題は次に移っていった。

私がいなくても彼らは放っておいてくれる。きっと、それぞれ抱えていることがあって、その適切な距離というものを知っているのだ。

――こういう夜は思い出してしまう。

少し離れたところから笑い声が聞こえ、波はやさしく船を揺らし、まるで子守唄のように小さい水音を耳に届ける。

「でも、アルベールの今日の話を聞きたい人はきっと沢山いるわ。どうして敵襲のタイミングがあんなにぴったり分かったのか、とかね」

彼は大勢の人から必要とされる人なのだ。彼がここにいるのはそぐわない気がして、戻るよう促したのだけれど、彼はそれを軽く笑って流してしまう。言いたいことを彼は正しく分かっているはずなのに聞き入れてくれなくて、私はさらに言葉を重ねる。

「私は大丈夫よ。だから」
「私がここにいたいんです」

彼は私に続きの言葉を言わせなかった。彼がぎゅうと私の左手を握る。私からそれ以上を封じ込めるように。

じわりと彼の触れたところから熱が移る。

「もうこれ以上は与えてくれなくていい」

私の人生はもうすでに満ち足りていて、これ以上を求めるなんてきっと罰が当たる。そう言って彼へ微笑んでみせる。淡いひかりの下でも、それは彼にもはっきり見えただろう。

「そんなことを言わないでください」

彼がなぜだか表情を歪めた。私の言葉は決して強がりではなく、事実であったはずなのに。そうやって日々を過ごしてきたのだから、きっとこれからも同じように過ごせるはずだ。

「きみを、ひとりにしたくないのです」

全く私はひとりじゃないのに。私には仲間がいて、今はアルベールが隣に座っている。そう言って笑えば、彼はゆるやかに首を横に振った。

「そういう意味ではありません。分かっているでしょう?」

思い出したのは父と母のことだ。遠く離れていたとしても母には父が必要で、父にとって母が宝だったのだ。きっとそれだけは間違いない。

――けれども、もしも。もしも、母には父がいたように、父には母がいたように、この世界のどこかに私にもそんなただひとりの相手がいたのなら。

「……約束してくれる?」

そばにいて。父と母のように。

その言葉は口には出さなかったけれど、彼には伝わったようだった。

「ええ、誓います」

彼が何に誓ったのかは分からない。彼の信ずる神になのか、海賊たちの言う海の女神になのか、それとも別の何者かなのか。おそらく、私のお祈りする神様とは違うのだろう。それでも、きっとアルベールは約束を守ってくれるのだろうと思えた。

「アルベール」

私の声に応える代わりに彼の左手が私の頬に触れる。彼のあたたかい手のひらが心地良く感じる。知らない間に夜風ですっかり冷えてしまっていたようだった。

手のひらがもう一度するりと頬を撫で上げる。顔を上げると、ふわりと彼が目を細めた。彼のもう片方の手が、私が床に置いた左手に重ねられ、縫い止められる。

彼の影が落ちてくる。

このとき私は初めて、母のあのときの表情を理解したのだった。

2019.07.09