アルベールがモテている。

「あ、アル――」
「アルベール!」

彼の名前を呼ぶ私の声は、ちょうど重なった弾むような明るい声に掻き消されてしまって彼に届くことはなかった。アルベールが振り返り、その右目に彼女が映る。

「アルベール! どちらへ行かれるの? 私もご一緒しても?」

晴れた日の海の色のような鮮やかな青いワンピースが風に揺れる。彼女の頬はほのかにピンク色に染まっている。怪我が良くなってきてからの彼女はずっとアルベールの後をついて回っていた。

先の戦いで敵船に捕らえられていた彼女をアルベールが助け出したらしい。故郷へ送り届けるまでの間、彼女の身をこの船で預かることになった。詳しい事情を私は知らないが、何でも良いところのお嬢さんらしい。

「あんな陰気な男のどこがいーんだか」

いつの間にか私の隣に立っていたティエラが呆れたように溢したが、まさに同意しかない。

私が頷こうと首を傾けると、ティエラの手が頭の上に乗って、くしゃくしゃとやや乱雑に髪を撫でた。

モテているという表現はあまり適切でないかもしれない。彼は今、まさに求婚されているのだ。何でも、故郷へ一緒に来てほしいと言われただとか、父に会ってほしいと言われただとか。正確な言葉は分からないが、それに近いことを言っただろうことは彼女の言動を見ていれば簡単に予想が付いた。

今ではふたりの一挙一動を船中が注目している。

「いよいよアルベールさんも船を降りるかもな」
「いや、しかしアルベールさんは――」
「お前、あんな金持ちで美人の女に求婚されて断るか?」
「俺だったら絶対断らない」
「だよな。俺もだ」

彼らはそう言い一瞬間を置いたあと、顔を見合わせて「ガハハ」と大声で笑った。

私にはそれの何が面白いのか全く分からなかった。

あのアルベールがいなくなってしまったら皆困らないのか。――おそらく皆、寂しくは思うだろう。けれども仲間がアルベールを祝福しないわけがない。

きっとこの船の中でこんなどろどろとした感情を抱えているのは私ひとりだけなのだ。

甲板の向こうではふたりが並んで立って笑い合っている。きらきらと降り注ぐ陽の光が眩しかった。

「どこに行くんだ?」
「散歩」

久しぶりに降り立った陸は、まだぐらりと足元が揺れるような感覚がした。



穏やかな波の音。砂浜は歩いても歩いても同じ景色が続いていくだけだった。

一度は街に行って何か美味しいものを食べたり買い物をしたりしようかと思って足を向けたのだけれど、自分が今何が食べたいのか何がほしいのか分からなくて、結局すぐに浜辺に戻ってきてしまった。向こうに小さく私たちの船が見える。

砂浜に座り込むと、色が濃くなった砂にお尻が湿る。靴は脱いで隣に置いた。小さく走る波が私の素足を少しだけ濡らしていく。

時折吹く風に雲が流れる。昼は晴れていたはずなのに、今は空一面厚い雲に覆われていた。今すぐ雨が降り出すことはないとは思うが、そろそろ戻った方がいい。頭では分かってはいたけれど、なかなか立ち上がる気にはなれなかった。

「こんなところにいたのですか」

真上から声が落ちてくる。その声は私がずっと聞きたくて、けれども今は世界で一番聞きたくない声だった。

「……何しに来たの? アルベール」
「きみの姿が見えないから探しに来たに決まっているでしょう。ほら、もうすぐ夜が来ますよ」

どんよりとした曇り空では日の沈むのも分からない。ずっと同じ明るさだからもう日が暮れると言われてもぴんと来なかった。そんなに長くぼーっとしていたつもりもないのだけれど。

「放っておいて」
「そうはいきません」
「……私がどうなろうといいじゃない。もうすぐアルベールには関係ないことになるんだから」
「随分な言い草ですね」

そう言ってアルベールが隣に腰掛ける。文句を言いたいのはこちらの方だった。

「船を、降りてしまうんでしょう?」

彼女と結婚してしまうのかとは聞けなかった。彼女と結婚して、彼女の家のお婿さんになったなら、今までのように危険を冒さなくったって莫大な財産を手に入れることが出来る。日頃からアルベールは危険を好む男ではなかったのだ。安全な方法があるのならば、そちらを選ぶに決まっている。

「降りませんよ」
「誤魔化さないで」
「誤魔化してなどいません。どこの誰からそんな話を聞いたのか知りませんが、全くの誤解です」

じっとアルベールの瞳がまっすぐにこちらを見る。彼が嘘を吐いているようには見えない。けれども――

「どうして」

ぽろりと溢れるように言葉が落ちる。

「あんな美人でお金持ちで親切で素敵な人そうそういないよ?」

彼女は非の打ち所がない女性だと断言出来る。例え財産を持っていなかったとしても、それでも十分に素敵な人なのだ。同じ女ということもあって、船では一緒に過ごす時間も必然と多かったから知っている。彼女は私にもとても優しかった。仕草は上品で、知的で、それでいてふと見せる笑顔は同性である私ですら思わず見惚れてしまうほど、魅力的な女性だった。

それに、アルベールと並んだ姿はまるで絵に描いたようで、私はふたりがとてもお似合いだと思ったのだ。

「危ないところを私が助けたから、彼女は今周りが見えなくなっているだけです」
「それでも、それは紛れもなく“恋”だよ」

例え一時の感情だとしても、どうしてそれを否定出来るだろう。一瞬で燃えるように広がったそれは、彼女の抱いているそれは、間違いなく恋と呼ばれるもののはずだ。――私の持つものと何ら変わらない。

「だとしたら、どうだと言うんです?」
「ひどい男……」

それをいとも容易く跳ね除けてしまう。あんなに優しくしておきながら。

「どちらがですか……」と小さく彼が呟いた。

「彼女と結婚したいとは思わないの?」
「思いませんね」
「アルベールは……おかしいよ……」
「何とでも」

ざざんと波打つ音が沈黙を遮る。

「私には大事に思うものがあるので」

それは、私だって知っている。アルベールが何を大切に思っているか。

「それに、手に入れたいものもある」
「アルベールにもそんなものがあるの? 初めて聞いたわ」
「きみには初めて言いました」

アルベールはあまり物に執着がないと思っていたから意外だった。そんな話はクリスからもティエラからも聞いたことがない。けれども、船員の大半は酒に酔うとそれぞれ自分の追い求める伝説の財宝の話をしだすのだから、アルベールにもそういうものがあったとしてもおかしくないのかもしれなかった。

「それはお金では買えないの? どこかの島に隠された財宝とか?」
「どこにあるかは分かっています。ですが、そうですね……お金では買えないし、代わりにどんな財宝を差し出したとしても到底手に入らない」

アルベールがそれほどまでに言うものが一体どんなものなのか、上手く想像出来なかった。

「諦めてしまうの?」
「いえ、必ず手に入れてみせます。きっと、もう少しで手が届く――」

そう言ってアルベールが風で乱れた私の髪を掬って耳に掛け直す。彼の指先の体温は、いつの間にか海風で冷え切った私にとってはひどく熱く感じられた。

「靴、どうせ波に攫われるままにしたのでしょう」

そう言われて初めて隣に置いていたはずの靴がなくなっていることに気が付いた。いつの間にか潮が満ちていたらしい。せっかく濡れないように避けておいたのに。

「仕方のない人ですね」と言って、彼が私を抱え上げる。「アルベール!」と抗議する声は強く体を引き寄せられて黙らされてしまう。裸足で歩いて怪我をするほど私の足の裏は柔らかくないのに。

観念してアルベールの歩くリズムに揺られていると、心臓はうるさく鳴るくせに、何故だか心は凪いでゆくようだった。海風でさえいつもよりやさしく感じる。

「あれほどお気に入りの靴だと言っていたくせに」
「そうだっけ」
「はぁ、きみはまったく……。今度新しいものを買ってあげますから」
「アルベールが?」
「ええ。ですから次は失くさないでくださいね」

自分の不注意で失くしてしまったのに、アルベールがそんなことを言い出すだなんて思わなかった。何となく落ち着かない心地がして、こっそり彼の服を握る。「もし」と言う私の声にアルベールが視線をこちらへ向けるのが分かった。

「もしまた失くしてしまったら――」

またアルベールはこうして私を船まで運んでくれる?

そう尋ねると、アルベールが小さく笑ったように思えた。

2019.06.10