ガラリと戸を開けて部屋の中に入ると、そこには申渡さんが行きがけと同じように机に向かって仕事をしていた。

「ただいま戻りましたー」
「おかえりなさい。買ってきたものはそこに置いておいてください」

お使いは最近の私の主な仕事のひとつになりつつあった。

私のデッキブラシの使い方が一向に改善されなかったせいか知れないが、いつの間にか風呂掃除係は解任されてしまったようだ。

代わりにお客様のお出迎えだとか、申渡さんが忙しくてなかなかそこまで手が回らない書類の整理やデータの作成を手伝うようになった。

お風呂掃除より役に立てているかどうかは分からないけれど、申渡さんに仕事ぶりを監視される時間が減ったので、こっちの方が私に合っているのかもしれないと思うようにしている。

「少し休憩にしますか」

買ってきたものをとりあえず部屋の隅に置いていると、申渡さんが軽く伸びをしてからこちらを振り返る。

帰ってきてすぐのタイミングで休憩がもらえて良かった。――しかし、いそいそと部屋を出て行こうとしたところで、申渡さんに手首を掴まれ阻まれてしまった。

「待ってください、どこへ行くのですか?」
「えっ、休憩なんですよね?」
「そう言いましたが、きみはさっき戻ってきたばかりでしょう」

お使い帰りで疲れていると言えば疲れている。お茶でも飲んでひと息つきたいところだけれども、今日の私には約束があるのだ。

「昨日お一人で到着された男性のお客様がいらっしゃるじゃないですか」
「ああ、確かどこかの社長をしているとかいう……。彼が何か?」
「暇だから時間が空いてるときにこの辺を案内してほしいと頼まれて」

今朝ショートカットしようと庭を早足で横切っていると、ちょうど散歩していた男性客に声を掛けられた。綺麗な庭ですねから始まり、景色の良いところへ行ってみたいという話になり、今日は一日暇になってしまったのでもし良ければどこか案内してほしいとお願いされた。

「行っては駄目です」
「えっ、どうして!」

ぎゅうと、申渡さんの私の腕を掴む力が強くなる。

最近はこの辺りをよく知るためにあちこち歩き回って勉強していたので、それを活かす絶好のチャンスだったのに。

「“少し”と言ったでしょう。そこまでの時間はありませんよ」

そう言って申渡さんがぐいぐい私の手を引いて、座り直させようとする。

「それにきみはまだここに来たばかりで不慣れでしょう。彼は毎年この時期に宿泊しているのであちらの方が詳しいくらいです」

それは知らなかった。てっきり初めてきたお客様で、何も分からないのかと思っていた。柊庵には一流旅館に泊まることそれ自体が目的で、周辺のことはあまり調べずにやってくるお客様も多い。彼もそのタイプだとばかり思い込んでいたのだ。

「私が穴場スポットを教えておきましょう」
「えっ、申渡さんが……?」
「任せてください。趣味は散歩ですので」

そう申渡さんが自信ありげに言う。確かに申渡さんなら地元の人すらほとんど知らないような場所も教えられそうだった。実際、お客様をお出迎えしたときにさらっとおすすめのスポットを教えているのを見たことがある。

「ほら、分かったら大人しく座ってください」

諦めて手を引かれるままに座ると、申渡さんは自らてきぱきとお茶の準備をし始めた。

残念だけれども、お客様をがっかりさせてしまうよりは良い。ここは、柊庵――超一流旅館なのだ。お客様に満足していただけないだなんてことは許されない。

「申渡さんのおすすめってどんなところなんですか? 私もそこに行ってみたいなぁ」
「では、今度の休日にでもいかがですか」

まさかそんな答えが返ってくるとは思わなかった。驚いて彼の方を見ると、申渡さんは薄く微笑んで湯のみを私の前に置いた。

「いいんですか?」
「今の時期にちょうど良い場所があるのです」

きっと、彼は季節に合った美しい景色の見られる場所をいくつも知っているのだろう。

「ですが、そこは私のお気に入りの場所なので他の人に教えてはいけませんよ」

他言無用ではお客様の役に立つためにという当初の目的とは逸れてしまうけれど、あの申渡さんが特別という場所にはぜひとも行ってみたい。「分かりました」と返事をすると申渡さんがほっとしたように息をついた。

「楽しみです」

申渡さんがそれほど言うからには、きっとものすごく素敵な場所に違いない。どういう風景なのか想像しようとして、でも上手く出来なくて、期待で頬がゆるんでしまう。

そんな私を見て、申渡さんがお茶をすする。

「じゃあ私、お客様に今回は代わりに申渡さんが案内することになったと伝えてきますね」
「いけません」

2019.02.04