「うちに来ませんか?」

そう言われたときの私は正常な判断が出来なくなっていたのかもしれない。他に行くあてもなく、職も失った私は、彼の誘いがとても魅力的なものに思えたのだった。

一度だけ、ドキリと心臓が鳴ったのもきっと、まともでなかったせいに違いないのだ。



超一流老舗旅館である柊庵はとにかく広い。

「ほら、ぼやぼやしていないで手を動かす! 時は金なりですよ!」

そう言って番頭がそろばんを鳴らす。きびきび働かなければ時間内にこの広い温泉を掃除しきることが出来ない。何とか時間に間に合わせるため、必死でブラシで床をこする。

「デッキブラシの使い方がなっていません!」
「はいっ!」

その声に背筋をピンと伸ばして、ブラシを持ち直す。

一週間前に比べれば大分まともになった方だとは思うのだけれど、掃除のあと毎度腰が痛くなっているようでは彼の言うようにまだまだなのだろう。

「こうですか?」
「そうです。あまり力を入れすぎてもいけません」

伝統ある柊庵で、私のような特別な才能もなく、どこかで訓練を受けたわけでもなく、生まれ持った気品なんかもない人間が簡単に働けるような場所ではないということを、一番初めに気が付くべきだった。

一瞬だけ休憩しようとしゃがみ込むと、すぐさま咎めるように耳元でそろばんの音が鳴る。少しくらい休憩させてくれたっていいのに。

「申渡さんはいつまでここにいるつもりですか?」
「きみをこの柊庵に誘ったのは私です。面倒を見る義務があるのですよ」

あまりにもひどい仕事ぶりでは、彼の顔を潰すことになる。慣れない場所で、あれこれ世話を焼いてくれる人がいるのはとてもありがたい。でも――

「こんな風に申渡さんにずっと見られてたら、仕事に集中出来ません!」
「それは――」

申渡さんがこんな人だというのは、この柊庵で働くようになって初めて知った。もっとクールな人かと思っていたけれど、思ったよりもうるさい人だというのもここ数日で知ったことだった。――前よりもずっと話しやすくて、私としてはこちらの方が良いのだけれども。

「……仕方ありません。私がいなくてもきちんとやってくださいね」

意外にも、申渡さんは私の言い分を聞き入れてくれたようだった。厳しい人だから、まだ駄目ですと言われてしまうかもと少しだけ思っていた。

そのまますぐに出て行ってしまうのかと思ったけれど、腕を組んで難しい顔をしたまま申渡さんがこちらに近付いてくる。

「手を」

意図が分からないままに右手を差し出すと、彼の左手が添えられて、手のひらにころんと包みが置かれた。

「……これは?」
「この間食べたいと言っていたでしょう」

手のひらに置かれたそれはお客様にお出しするような高そうなお菓子だった。お茶の用意しているときに見かけて、おいしそうだとぽつりと溢したような気もする。

申渡さんのことだからまさかお客様にお出しするものを勝手に持ってきたわけではないとは思うけれど、私なんかがもらってしまっても良いものなのだろうか。賞味期限切れが近かったとか?

「それを食べたらもう少し頑張ってください」

それだけ言って申渡さんはやっと出て行った。その後ろ姿が見えなくなったところでぺたりと浴槽の縁に座り込む。

じわりと、右手が忘れかけていた熱を思い出したようだった。

2019.02.03