「わっ」

申渡くんが靴箱の扉を開けると、数枚の便箋が滑り落ちていった。

「今日もすごいね」
「ファンレター? それとも、ラブレター?」

落ちた手紙を拾い集める彼の手元を覗き込みながら、辰己くんが興味津々といった様子で尋ねる。

「手紙なら辰己の方が多くもらっているではありませんか」
「俺のファンはなかなか靴箱には入れてくれないなぁ」

今までも何度かこういう場面には遭遇したことがある。今日はいつもより数が多いようだけれど、以前は一通だけちょこんと彼の靴の上に控えめに置かれている日もあった。

彼は表の宛名と、裏に差出人の名前がないか軽くひっくり返して確認していく。差出人の名前は書いてあるものとないものが半々だった。彼はそれらを丁寧にひとまとめにして鞄にしまう。

「栄吾の天使を知ってる?」

前置きもなく唐突に辰己くんが言う。そのあまり日常では聞き慣れない単語を理解するのに一瞬だけ時間が掛かった。

「申渡くんの天使?」
「辰己」

私が聞き返せば、申渡くんが辰己くんを制するように短く名前を呼ぶ。辰己くんはそれに悪びれた様子もなくいつもと同じように微笑んでみせる。

「辰己が私をからかって、手紙の差出人のことをそう呼ぶのです」
「ただの手紙じゃないよ。栄吾が特別大事にしてる手紙なんだ」
「辰己」

辰己くんは申渡くんから視線を私に移して、まっすぐにこちらを見つめた。辰己くんの瞳には人を引きつける力がある。彼がもう一度口を開いてその続きを言おうとしているのに、それから目が逸らせなかった。

「栄吾が初めてもらったファンレター」

思わずはっと息を飲んでしまった音が、ふたりに聞こえてしまっていないか心配になった。

「栄吾の机の引き出しの中、一通だけ他と違う場所にしまってあるそれを、栄吾は今でも時折読み返してる」

初耳だった。他人に言うような話ではないのかもしれないけれど、今まで彼がもらった手紙をどうしているかなんて、考えたことすらなかった。しかし、考えてみれば彼がもらった手紙を丁寧にしまっているのは想像に難くなかった。

その中の特別な一通。

「栄吾はずっとその天使が名乗り出てくれるのを待ってるんだよ」
「辰己、適当なことを言わないでください」
「あれ? 違った?」

辰己くんがいたずらっぽく微笑む。それに申渡くんは溜息を吐いて、諦めたように話し始めた。他人に言われるよりも自分の口で説明した方が良いと思ったのかもしれない。

「初心を思い出したいときに読み返しているのです」

それはひどく彼らしいように思えた。彼はそういうことを大事にする人だというのは普段の言動からもよく分かる。真面目で、努力家で、目標に向かって一歩ずつ歩いていこうとする人であることは、私も近くで見ていたから知っている。

「差出人の名前は書いてありませんでした。靴箱に入っていたので顔も見ていません」

がやがやと男子生徒二、三人の賑やかな話し声が近づいてきて、また遠ざかる。再び静かになると、それまでよりもずっと静寂が際立つようだった。

一瞬途切れた彼の言葉に、もうこのまま時が止まってしまえば良いのにとすら思った。

申渡くんがふと目を伏せて言う。

「ですが、そうですね……。名乗り出てくれるのならば、そのときはきちんとお礼を言いたいです」
「それだけでいいの? 栄吾は無欲だなぁ」

トンと軽い足音で辰己くんが申渡くんの正面に立つ。辰己くんはほんの少しだけ呆れを混ぜたような表情で言う。

「俺だったらとっくに探し出してると思うけどな」
「彼女の気持ちを尊重したいのです」

昇降口に濃いオレンジ色の夕日が差し込む。トントンと申渡くんが靴のつま先を鳴らす小さな音がする。私が何も言えずにいる間に、彼は靴を履き終え、体を起こした。

「私にとってこの手紙が特別なものだということは間違いないので」

そう言った彼の横顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。目を細めて眩しそうなその表情は、彼が何を言わなくたって分かってしまった。

強すぎる夕日のせいか、ぎゅうと心臓が苦しくなる。

「ほら、早く帰りますよ。今日の夕飯はカレーなのだと、朝から自慢していたではありませんか」

そう言って彼が私を促す。それに私はやっと靴を置くとそれに足を入れる。右足を収め、その次に左足。ローファーの鳴る音がいつもよりやけに耳につくような気がした。

2018.12.11