「実はカフェ巡りが趣味でして」
そう言って申渡くんは手に持っていた缶コーヒーをことりと置いた。
「この間行ったお店はキャラメルマキアートが絶品でした」
「へえ、おいしそう。飲んでみたいなぁ」
申渡くんがそう言うからには、きっと特別おいしいキャラメルマキアートに違いない。申渡くんは意外にもこういう甘い飲み物も好きだと言う。
彼の手の中に収まる、背の低い小さくてかわいらしいカップを想像する。
申渡くんが選ぶお店なのだから落ち着いた雰囲気かなとか、キャラメルマキアートが看板メニューならきっと堅すぎない居心地の良いお店なのかな、なんてことを考える。そのお店の全体が見渡せる端っこの席に静かに座る申渡くんの姿は想像に難くなかった。
けれども、そんな空想も「では」という彼の声で、ぱちんと弾けた。
「では、今度一緒にいかがですか? 場所もあまり遠くありませんので」
そう言って申渡くんがやわらかく目を細める。
そんな風に言われては、「ぜひ」と答えるだけでいっぱいいっぱいになってしまう。
「ぜひ、お願いします」
そう言う途中に口から心臓が出てしまわないか心配になった。自然に、でも嬉しいと思っていることは伝わるように、などと意識していたら結局出てきたのは掠れた声になってしまった。
「ふふ、楽しみですね」
まるで私の気持ちを代弁するかのように申渡くんが言うので、私はこくこくと一生懸命首を縦に振った。
*
友達と今日あった小テストがどうとか明日の体育がマラソンでだるいなどと他愛もない話をしながら歩く帰り道は、いつもと何ら変わりないもののはずだった。
「じゃあまた明日」
「バイバイ」
駅に着き、手を振って友達と別れると、自分も早く家に帰ろうと改札へ向かう。ちょうど鞄の中から定期券を取り出したときだった。
「さん」
不意に後ろから名前を呼ばれた。その聞き覚えのある声に驚いて振り向くと、頭に浮かべた通りの人物が立っていた。
「申渡くん! どうしたの?」
弾んだ声で言いながら、彼の元に駆け寄る。こんなところに申渡くんがいるだなんて信じられない気持ちだった。嬉しい気持ちを抑えきれないまま彼を正面から見上げると、申渡くんは引き結んでいた口をぱかりと開けて「実は」と話を切り出した。
「先日話したカフェにこれからどうかと思いまして。きみの時間さえあれば」
彼の言葉に思わずぱちぱちと瞬きを繰り返す。カフェというのはもしかして、この間申渡くんが話してくれたキャラメルマキアートのお店のことだろうか。
「大丈夫! 行きたい!」
まさか彼の方から会いに来て、わざわざ誘ってくれるだなんて思ってもみなかった。私が行きたいと言ったのを、彼が覚えていてくれたことも。
私の勢いをつけた答えに、申渡くんがふと息を吐いて口元をゆるめる。大きな声を出しすぎてしまっただろうかと今さら恥ずかしくなる。
「良かった」
そう言って申渡くんがふにゃりと笑う。ひどくやわらかい声で、今にも溶けそうな表情で。
それに私の心臓はドキリと大きく鳴って、思わず彼から目を逸らしてしまう。たまに申渡くんはこういう表情を見せるのだけれど、ひどく心臓に悪い。そんな風に微笑まれては、こちらはどういう顔をしたらいいのか分からなくなる。
「では行きましょう」
そう言って申渡くんが歩き出す。それに遅れないように彼の隣に並んだ。こっそり、熱くなった頬を冷ますように手で顔を仰ぎながら。
いつも見慣れた学校からの帰り道に申渡くんがいることにそわそわ落ち着かない気持ちを抑えながら、「申渡くんはよくこの辺にくるの?」だとか「今日は早く授業が終わったりしたの?」だとか友達と下校するときと同じように何ともない話題を投げかける。
それに対しても彼は「ええ、そうですね。休日たまに」だとか「今日は放課後のレッスンが休みだったもので」と丁寧に返事をしてくれる。そうやって話しているうちに少しずついつもの調子が戻ってくきた。
「それで、古文の予習をうっかり忘れた日に限って先生に指されちゃって」
そんなことを話していると、ふと、じっとこちらを見つめる視線を感じた。申渡くんの方を向くと、ばちりと目が合う。
けれども私が「なに?」と尋ねる前に、ふいと彼が前を向く。それを不自然に思う前に、彼が数件先の建物を指差した。
「ああ、あのカフェですよ」
町中に静かに佇むそのカフェは想像した通り、こじんまりと落ち着いたお店だった。申渡くんがドアを開けると、ドアについたベルがカランと鳴る。
「どうぞ」
申渡くんに促されて中に入ると、「いらっしゃいませ」とカウンターの向こうからカフェの店員の落ち着いた声がする。
奥の陽当たりの良い席に案内され、メニューを手渡される。どれもおいしそうで気になったけれど、やはりここは申渡くんのお勧めであるキャラメルマキアートを注文すると、彼も同じものを頼んだ。
「かわいいお店だね」
「……え、ええ。そうですね。内装や店の雰囲気もきっときみは気に入るだろうと思っていました」
私の言葉にワンテンポ遅れて申渡くんが返事をする。申渡くんがそうやって私のことを考えてくれたことが嬉しくて、でも心の奥がむずむずして仕方がない。
「うん。よく分かったね……」
他に何と答えたら良いのかも分からなくて、それだけを返すと、そのあと不自然に会話が途切れてしまった。
いつもなら申渡くんがすぐにあれこれ話題を振ってくれるから、こういう沈黙は珍しかった。
何か、彼が気を取られるようなことでもあったのだろうか。けれども、どうかしたのかと尋ねようとしたとき、ちょうど「お待たせしました」と店員さんが注文したものを運んできてくれたので、私は開けかけていた口を閉じた。
「わぁ」
運ばれてきたかわいらしいカップの中を覗き込んで、思わず感嘆の声が出てしまった。ふわふわの泡にキャラメルが格子状にかけられている。
一口飲むとふわりとやさしいキャラメルの風味が口の中に広がる。べたべたしないのに、舌の上でそれがひどく甘く感じられた。やはり特別なキャラメルマキアートだったのだ。
「おいしい! さすが申渡くんのオススメだね」
思わず弾んだ声が出てしまった。あまりにも子どもっぽい言葉に、これではまた申渡くんに笑われてしまうと思ったのに、彼のふふと笑ういつもの声は、いくら待っても聞こえてこなかった。
「申渡くん?」
「え? あ、すみません。少しぼうっとしてしまって」
「申渡くんでもぼーっとすることなんてあるんだね。意外」
くすりと笑いを溢せば、きっと今度こそ申渡くんも同じように微笑んでくれるはずだと思っていた。けれども、目の前に座る彼はいつになく固く口元をきゅっと引き結んでいた。
やっぱり、なんだか今日の申渡くんは変だ。
私がもう一度「申渡くん」と呼びかけようとしたのと同時に「さん」と彼が私の名前を呼ぶ。その固い声に私は思わず椅子に座り直して姿勢を正した。
「……今日はきみに伝えたいことがあってここに誘ったんです」
「伝えたいこと?」
おうむ返しに尋ねると申渡くんがひとつ、こくりと頷く。
何だろう。
申渡くんが改まった様子で、じっと真っ直ぐにこちらを見つめる。そのひどく真剣な瞳に、こちらまで緊張でドキリと心臓がおかしなふうに鳴る。
きっと今は、彼のバニラ色の瞳の中に私だけが映っている。
「きみが好きです」
ぱちりと瞬きをしてみても、目の前に座る申渡くんは同じ瞳で見つめ続けている。その視線に慣れなくて、思わず視線を下げてしまった。
思い違いなど出来そうにないくらい、まっすぐな言葉だった。
何か言わなきゃと口を開いたものの、カラカラに乾いていて、何から言ったらいいのかも分からなくて、ただ口をぱくぱくとさせただけになってしまった。
「……驚かせてしまいましたか?」
彼のやわらかな声がする。
テーブルの向こう側にある彼のカップはまだほとんど中身が減っていなかった。彼の手はテーブルの下に置かれていてこちらからは見えない。
「私としては分かりやすい態度を取っていたつもりだったのですが」
そう言って申渡くんが苦笑する。それに私は上手く答えられなかった。
“もしかして”を考えなかったわけじゃない。申渡くんが今度一緒にと言ってくれたとき、本当はものすごく期待したのだ。何とも思っていない人を申渡くんは誘ったりしないんじゃないかって。けれども、それと同時に彼は性別や年齢関係なく友人を作りそうな人だったから、私もその“友人”として誘われた可能性もゼロじゃないように思えた。もしくはただの社交辞令だったのでは、とも。
でも、申渡くんが私にふわりと微笑みかけるその表情は、他の人へ向けるものとどこか違うように感じられて。私はそれを、彼が私だけに向ける特別なものだと思いたかったのだ。
「驚くに決まってるよ……」
「それは、すみません」
私の拗ねるような言い方に、申渡くんが小さく笑い声を落とす。
本当に申渡くんが、私を。
じわりじわりと顔が熱くなって、だんだん彼の顔が見れなくなる。視線がどんどん下がっていって、両手で包み込んだカップを落ち着かない指先がぱたぱたと叩く。申渡くんと会っているときは大抵頬が熱いように思えるから、この特別真っ赤な顔に彼が気付かないままでいてくれるといいのに。
「良ければ返事を、聞かせてもらえませんか?」
答えなんかとっくに決まっている。
けれども、この胸の中に詰まっている感情をすべて言葉にすることは、ひどく難しいように思えた。こういうとき、何と言うのが上手い返事なのかも分からない。
「私も……」
申渡くんのことがすき。
自分らしくないような、小さな声しか出なかった。けれども、彼にはそれで十分だったようだった。彼のふうと息を吐く音で、申渡くんが私の言葉を聞き逃さないように真剣に待っていてくれたのが分かった。
ちらりと顔を上げると、それが彼の視線と交わる。
「うれしいです」
そう言って彼がこちらへ向けた笑顔は、きっと私だけのものなのだ。
2018.11.28